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董文炳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

董 文炳(とう ぶんへい、太祖12年(1217年) - 至元15年9月13日1278年10月1日))は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は彦明。子は董士元董士選

概要

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生い立ち

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董文炳は早くからモンゴル帝国に仕え、トルイ家の投下領かつ漢人四大軍閥の一角たる史家の傘下にある、真定府藁城を拠点とする董俊の長男として生まれた。金朝との戦いで若くして父が戦死した時に董文炳は僅か16歳であったが、弟たちをよく率いて暮らし、師に学んで成長した[1]1235年乙未)、董文炳は17歳の若さで父の地位を継ぎ藁城県令となったが、同輩や役人からはあまりにも若すぎるために軽んじられていた。しかし、董文炳は適切な判断を重ねて次第に周囲の者たちの信頼を勝ち取り、蝗害などに悩む県の回復と安定に努めた[2]。董文炳は私財をなげうって数千石の穀物を県に与えるなど農民の生活の安定に努めたため、流民の多くが帰還し県は復興に至った[3]

モンケ治下の南宋侵攻

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こうして15年近く郷里の復興に務めた董文炳であったが、第4代皇帝モンケ・カアンが即位し南宋侵攻が本格化すると、軍官として軍事侵攻の前線でも用いられるようになっていった[4]1253年癸丑)秋、董文炳はモンケより雲南・大理遠征中の皇弟のクビライの下に向かうよう命を受け、46騎を率いて雲南地方に向かった。しかし雲南への道は険しく、同行者の多くが道中で命を落とし、死んだ馬の肉を食べながら2人だけ残った従者と董文炳は進んだが、チベット(吐蕃)に至ったあたりで進退窮まった。ここで董文炳らは偶然モンゴル軍の使者に遭うことができ、報告を受けたクビライが軍中に属していた弟の董文忠を派遣し董文炳は無事クビライの下に至ることができた。クビライは大変な苦労を重ねて現れた董文炳の忠義をたたえて軍中に迎え入れ、以後董文炳・董文忠兄弟はクビライに仕えるようになった[5][6]

1259年己未)秋、モンケの命により長江中流域より南宋領に侵攻したクビライ軍に董文炳は属し、淮西の台山寨を攻略するよう命じられた。董文炳はまず城下から投降するよう呼びかけ、城民がこれを拒むと、甲冑を脱いで「我は兵を用いるために来たのではなく、汝らを生かすために来たのだ。早く降らなければ、城塞は皆殺しとなるぞ」と述べたため、ようやく城塞は降伏を決めたという。 同年9月、クビライ軍は陽羅堡に至ったが、南宋兵が長江の対岸に塁を築き守りを固めていた。そこで董文炳は先鋒を申し出て、死士100人あまりと弟の董文用・董文忠とともに最前線に立って南末兵の堡塁に切り込み、これを大いに破った。しかし、同年中にモンケが急死したためにクビライ軍は引き返さざるをえなくなった[7]

帝位継承戦争・李璮の乱

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1260年庚申)、モンケの急死によりモンゴル帝国ではクビライとアリクブケが武力でもって帝位を争うことになり(帝位継承戦争)、クビライは自派の者のみでドロン・ノール(後の上都)でクリルタイを開き皇帝(カアン)位を称した。クビライは董文炳を宣慰燕南諸道、ついで山東東路宣撫使に任じ、また董文炳の息子たちも取り立てられて董氏一族はクビライ政権下の重臣として重用される基盤が作られた[4]。なお、最初に董文炳が宣慰使に任じられたのはその軍事力・統率力を買われたためとみられ[8]、その後山東半島方面に赴任したのは後述する李璮の叛乱を警戒していたためとみられる[9]。更に、中統2年(1261年)に史天沢の有する軍事力を中心に侍衛親軍が組織されると[8]、史天沢と近しい董文炳も侍衛親軍都指揮使の地位を授けられてこれに属した[10]

中統3年(1262年)、漢人世侯の一人である李璮が済南で叛乱(李璮の乱)を起こすと、史天沢らクビライ直属の漢人世侯とともに董文炳・董文用らが叛乱平定のため派遣された[11]。叛乱平定軍は直接戦闘を避け柵と塹壕による「環城」の構築によって徹底的に李璮軍を包囲するという戦術で李璮を追い詰めた。李璮軍を完全に包囲下に置いた所で、董文炳は計略を以てを生け捕りにすべしと進言し、田都帥なる李璮の部下に李璮を裏切れば命は保障すると呼びかけた。李璮の腹心の部下であった田都帥が董文炳の働きかけによって投降すると、その他の者たちも次々にモンゴルへの投降を決意し、遂に李璮は裏切った部下に捕らえられてモンゴル軍に差し出された。李璮の捕縛後も沂州・漣水方面には2万余りの李璮軍残党がいたが、董文炳によって平定された[12]

李璮の乱の鎮圧後、李璮が支配していた山東地方が未だ不安定であることを理由に、董文炳は山東東路経略使に任じられ、山東地方に駐屯した。閏9月にかつて李璮の本拠地であった益都に至ると、董文炳は配下の軍勢を城外に留め、僅か数騎を率いて城内に入った。董文炳は元李璮の部下であった将軍たちを呼び出すと叛乱の罪は李璮にあって他の者達にはない旨を伝えたため、益都の者達は喜び、山東地方はよく治まったという[13]

クビライ治下の南宋侵攻

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至元3年(1266年)、董文炳はそれまで史氏一族が任命されていた鄧州光化行軍万戸・河南等路統軍副使の地位を授けられた。この任命と同時に董文炳には南宋侵攻のための水軍建設が命じられ、500艘の戦艦の建造と水戦の訓練を行った。また、南宋侵攻に当たってクビライは董文炳に河北から大々的に徴兵する計画を相談していたが、董文炳は徴兵の対象とすべきは長江の地理に習熟している河南の民であり、河北の民には軍糧の提供を命じるに留めるのが良いと献策し、クビライに採用されている[14]

至元7年(1270年)に入ると山東路統軍副使に改められ、沂州に駐屯した。沂州は南宋との最前線であり、糧食の確保を内陸からの輸送に頼っていたが、クビライは新たに糧食は州城周辺から微発するよう命じた。しかし、董文炳は周囲に反対されながらもクビライの命を無視して従来通りのやり方を続け、一方で使者を派遣してクビライの命が実情に沿わないことを3つの理由を挙げて説明させ、これを受けてクビライも董文炳の正しさを認め命を改めたという[15]

至元9年(1272年)、枢密院判官の地位に移り、南宋領侵攻に備えて正陽両城の築城を行っている。至元10年(1273年)、大雨によって長江が増水する中、同年夏に夏貴率いる10万の南宋軍の包囲を受けることになった。董文炳は自ら城壁に上って防戦を指揮し、一度は左臂を射られながらも、矢が尽きるまで奮戦して南宋軍を寄せ付けなかった。激戦の翌日、増水した河水を避けようとした董文炳の軍団を夏貴は追撃して優勢となったため、負傷した董文炳の代わりに子の董士選が指揮を執った。董士選は父以上に奮戦して夏貴配下の武将を捕虜とし、董文炳もまた負傷の身を押して陣頭指揮を執ったため、遂に南宋軍は退却し再び侵攻することはなかったという[16]

また、南宋の守りの要である襄陽城が陥落したことにより、バヤンを総司令とする南宋領への全面侵攻が開始されることになった。董文炳もまた同年9月に正陽を発ち、翌至元11年(1274年)正月に安慶でバヤンと合流した。安慶の守将である范文虎が降ると、董文炳は比較的損耗の少ない自らの指揮する軍団が先鋒を務めることを申し出、知州事の王喜を降らせる功績を挙げた[17]。3月、江南の酷暑で軍団が疲弊することを恐れたクビライはバヤンは建康に、董文炳は鎮江に駐屯するようそれぞれ命じた。この頃、張世傑・孫虎臣らの守る揚州・真州が頑強にモンゴル軍の侵攻を阻んでいたが、董文炳は子の董士選・弟の子の董士表らとともに危険を冒して張世傑らの乗る大艦に近づき、激戦の末南宋軍を敗走させた。この戦いの余りの戦死者の多さのために川の流れは一時淀み、董文炳は1万人余りの捕虜と700艘の戦艦の拿捕という大きな功績を挙げることになった[18]。10月、南宋侵攻軍は3つの軍団に分かれ、董文炳は左翼軍に属して長江沿いに南宋の首都の臨安に向かった。董文炳は江陰軍僉判の李世修を説得して投降させ、また海商の張瑄も息子の董士選を派遣して投降させることに成功した[19]

南宋領平定

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至元13年(1276年)正月、バヤン率いるモンゴル軍が南宋の首都臨安城北に至ると、張世傑恭帝を擁して逃れようとしたが、董文炳が浙江亭を守りこれを防いだため、やむなく恭帝の弟を擁して海上に逃れた[20]。バヤンは臨安に入るに当たってまず董文炳を先に派遣し、董文炳は南宋の官府を解散させ、宝物庫の礼楽器・図籍を接収し、最も重要な南宋皇帝の璽符のみは先にバヤンに届けさせた。バヤンは南宋皇帝の身柄の保護を董文炳に任せ、董文炳とその配下たちは略奪や子女への乱暴を慎んだため、南宋の民には南宋皇帝が退位したことを知らなかった者さえいるという[11]。また董文炳は翰林学士の李槃に「国が滅んだとしても、史は失われるべきではない。南宋皇帝は16主、天下を支配すること300年余りであった。南宋の太史が記し史館に残された記録は全て接収し典礼に活かすべきである」と述べ、南宋の史書及び注記5000冊余りを全て接収し国史院に保管した[21]。このように、南宋の膨大な記録が大都で無事に保管されたのには董文炳の功績が大きかった。クビライの下に帰還したバヤンは「臣らは天威を奉じて南宋を平らげ、南末は既に滅びました。それまでの功績をまとめると、董文炳の功は多いと言えるでしょう」と述べ、クビライもこれを容れて董文炳に資徳大夫・中書左丞の地位を授けたという[22][23]

一方、端宗を奉じて臨安を逃れた張世傑は台州に拠っており、董文炳は張世傑らの討伐のため派遣された。董文炳は配下の将兵たちに田畑を荒らすことを厳しく禁じたため、旧南宋民も敢えて董文炳に逆らわず、張世傑は董文炳軍の接近を知って戦わずして逃げ出した。董文炳が台州を占領したときも州民は罪に問わず解き放ち、温州の攻略戦でも子女への掠奪を強く禁じたため、漳州・泉州・建寧・邵武諸郡の民は率先して来附したという[24]

晩年

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南宋平定と並行して、中央アジア方面ではカイドゥ討伐のため派遣された遠征軍の中でシリギが叛乱を起こし、クビライ打倒を掲げて東進するという大事件が起こっていた(シリギの乱)。至元14年(1277年)正月、臨安にいた董文炳もまた急遽クビライの下に召し出され、4月にクビライのいる上都に至った。シリギの乱鎮圧を命じられると思っていた董文炳は自ら北辺に向かうことを申し出たが、クビライはむしろ自らが北方対策をする間の南方統治を董文炳に委ねることを命じ、董文炳は当初謝辞したものの最終的には受け容れた。また、この時のクビライとの問答の中で泉州の有力者の蒲寿庚を取り立てることを勧め、クビライもこの進言を受け容れたという[25]。この頃、大都では西方出身のアフマド・ファナーカティーが絶大な権力を得て辣腕を振るっていたが、クビライから信任を受けていた董文炳のみは畏れ、董文炳が大都に滞在していた頃は横暴な振るまいも控えられていたという[26]

至元15年(1278年)夏、董文炳は病を理由に職務を辞し、より気候の冷涼な上都に移って再びクビライに北方で職務に就くことを申し出たが、クビライはこれを許さず僉書枢密院事に任じた。8月の天寿節(クビライの誕生日)でクビライは董文炳を上座に座らせ、宗室・大臣に「董文炳は功臣であるため、ここに座るのは当然である」と語ったという。しかしこのような配慮にもかかわらず董文炳はこの日の夜に体調を崩し、9月13日は更に体調が悪化したため、董文忠らに遺言を残して亡くなった[22]。クビライは董文炳の死を厚く悼み、金紫光禄大夫・平章政事の地位を追贈したという[27]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「董文炳字彦明、俊之長子也。父歿時年始十六、率諸幼弟事母李夫人。夫人有賢行、治家厳、篤於教子。文炳師侍其先生、警敏善記誦、自幼儼如成人」
  2. ^ 藤島1986,16頁
  3. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「歳乙未、以父任為藁城令。同列皆父時人、軽文炳年少、吏亦不之憚。文炳明於聴断、以恩済威。未幾、同列束手下之、吏抱案求署字、不敢仰視、里人亦大化服。県貧、重以旱蝗、而徴斂日暴、民不聊生。文炳以私穀数千石与県、県得以寛民。前令因軍興乏用、称貸於人、而貸家取息歳倍、県以民蚕麦償之。文炳曰『民困矣、吾為令、義不忍視也、吾当為代償』。乃以田廬若干畝計直与貸家、復籍県閒田与貧民為業、使耕之。於是流離漸還、数年間民食以足。朝廷初料民、令敢隠実者誅、籍其家。文炳使民聚口而居、少為戸数。衆以為不可、文炳曰『為民獲罪、吾所甘心』。民亦有不楽為者、文炳曰『後当徳我』。由是賦斂大減、民皆富完。旁県民有訟不得直者、皆詣文炳求決。文炳嘗上謁大府、旁県人聚観之、曰『吾亟聞董令、董令顧亦人耳、何其明若神也』。時府索無厭、文炳抑不予。或讒之府、府欲中害之、文炳曰『吾終不能剥民求利也』。即棄官去」
  4. ^ a b 藤島1986,17頁
  5. ^ 牧野2012,351-352頁
  6. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「世祖在潜藩、癸丑秋、受命憲宗征南詔。文炳率義士四十六騎従行、人馬道死殆尽。及至吐蕃、止両人能従、両人者挾文炳徒行、躑躅道路、取死馬肉続食、日行不能三二十里、然志益厲、期必至軍。会使者過、遇文炳、還言其状。時文炳弟文忠先従世祖軍、世祖即命文忠解尚厩五馬載糗糧迎文炳。既至、世祖壮其忠、且憫其労、賜賚甚厚。有任使皆称旨、由是日親貴用事」
  7. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「己未秋、世祖伐宋、至淮西台山寨、命文炳往取之。文炳馳至寨下、諭以禍福、不応、文炳脱冑呼曰『吾所以不極兵威者、欲活汝衆也、不速下、今屠寨矣』。守者懼、遂降。九月、師次陽羅堡。宋兵築堡于岸、陳船江中、軍容甚盛、文炳請於世祖曰『長江天険、宋所恃以為国、勢必死守、不奪其気不可、臣請嘗之』。即与敢死士数十百人当其前、率弟文用・文忠、載艨艟鼓櫂疾趨、叫呼畢奮。鋒既交、文炳麾衆趨岸搏之、宋師大敗。命文用軽舟報捷。世祖方駐香炉峰、因策馬下山問戦勝状、則扶鞍起立、竪鞭仰指曰『天也』。且命他師毋解甲、明日将囲城。既渡江、会憲宗崩。閏十一月、班師」
  8. ^ a b 牧野2012,355頁
  9. ^ 牧野2012,393頁
  10. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「庚申、世祖即位于上都、是為中統元年、命文炳宣慰燕南諸道。還奏曰『人久弛縦、一旦遽束以法、不可。危疑者尚多、宜赦天下、与之更始』。世祖従之、反側者遂安。二年、擢山東東路宣撫使。方就道、会立侍衛親軍、帝曰『親軍非文炳難任』。即遙授侍衛親軍都指揮使、佩金虎符」
  11. ^ a b 藤島1986,18頁
  12. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「三年、李璮反済南。璮劇賊、善用兵。文炳会諸軍囲之、璮不得遁。久之、賊勢日蹙、文炳曰『窮寇可以計擒』。乃抵城下、呼璮将田都帥者曰『反者璮耳、餘来即吾人、毋自取死也』。田縋城降。田、璮之愛将、既降、衆遂乱、禽璮以献。璮兵有沂・漣両軍二万餘人、勇而善戦、主将怒其与賊、配諸軍、使陰殺之。文炳当殺二千人、言于主将曰『彼為璮所脅耳、殺之恐乖天子仁聖之意。向天子伐南詔、或妄殺人、雖大将亦罪之、是不宜殺也』。主将従之。然他殺之者已衆、皆大悔」
  13. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「璮伏誅、山東猶未靖、乃以文炳為山東東路経略使、率親軍以行。出金銀符五十、有功者聴与之。閏九月、文炳至益都、留兵于外、従数騎衣冠而入。居府、不設警衛、召璮故将吏立之庭、曰『璮狂賊、詿誤汝等。璮已誅死、汝皆為王民、天子至仁聖、遣経略使撫汝、当相安毋懼。経略使得便宜除擬将吏、汝等勉取金銀符、経略使不敢格上命不予有功者』。所部大悦、山東以安」
  14. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「至元三年、帝懲李璮之乱、欲潜銷方鎮之横、以文炳代史氏両万戸為鄧州光化行軍万戸・河南等路統軍副使。到官、造戦艦五百艘、習水戦、預謀取宋方略、凡阸塞要害皆列柵築堡、為備禦計。帝嘗召文炳密謀、欲大発河北民丁。文炳曰『河南密邇宋境、人習江淮地利、宜使河北耕以供軍、河南戦以闢地。俟宋平、則河北長隷兵籍、河南削籍為民。如是為便。又将校素無俸給、連年用兵、至有身為大校出無馬乗者。臣即所部千戸私役兵士四人、百戸二人、聴其雇役、稍食其力』。帝皆従之、始頒将校俸銭、以秩為差」
  15. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「七年、改山東路統軍副使、治沂州。沂与宋接境、鎮兵仰内郡餉運。有詔和糴本部、文炳命収州県所移文。衆諫以違詔、文炳曰『但止之』。乃遣使入奏、略曰『敵人接壌、知吾虚実、一不可;辺民供頓甚労、重苦此役、二不可;困吾民以懼来者、三不可』。帝大悟、罷之」
  16. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「九年、遷枢密院判官、行院事於淮西。築正陽両城、両城夾淮相望、以綴襄陽及擣宋腹心。十年、拝参知政事。夏、霖雨、水漲、宋淮西制置使夏貴帥舟師十万来攻、矢石雨下、文炳登城禦之。一夕、貴去復来、飛矢貫文炳左臂、着脅。文炳抜矢授左右、発四十餘矢。菔中矢尽、顧左右索矢、又十餘発、矢不継、力亦困、不能張満、遂悶絶幾殆。明日、水入外郭、文炳麾士卒欲避、貴乗之、圧軍而陣。文炳病創甚、子士選請代戦、文炳壮而遣之、復自起束創、手剣督戦。士選以戈撃貴将仆、不死、獲之以献。貴遂去、不敢復来」
  17. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「是歳、大挙兵伐宋、丞相伯顔自襄陽東下、与宋人戦陽羅堡。文炳以九月発正陽、十一年正月会伯顔于安慶。安慶守将范文虎以城降。文炳請于伯顔曰『大軍既疲於陽羅堡、吾兵当前行』。伯顔許之。宋都督賈似道来禦、師陳於蕪湖、似道棄師走。次当塗、文炳復言于伯顔曰『采石当江之南、和州対峙、不取、必有後顧』。遂進攻之、降知州事王喜」
  18. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「[至元十一年]三月、有詔以時向暑熱、命伯顔軍駐建康、文炳軍駐鎮江。時揚州・真州堅守不下、常州・蘇州既降復叛。張世傑・孫虎臣約真・揚兵誓死戦、真・揚兵戦毎敗、不敢出。世傑等陳大艦万艘、碇焦山下江中、勁卒居前。文炳身犯之、載士選別船。弟之子士表請従、文炳顧曰『吾弟僅汝一子、脱吾与士選不返、士元・士秀猶足殺敵、吾不忍汝往也』。士表固請、乃許。文炳乗輪船、建大将旗鼓、士選・士表船翼之、大呼突陣、諸将継進、飛矢蔽日。戦酣、短兵相接、宋兵亦殊死戦、声震天地、横屍委仗、江水為之不流。自寅至午、宋師大敗、世傑走、文炳追及于夾灘。世傑収潰卒復戦、又破之、遂東走於海。文炳船小、不可入海、夜乃還。俘甲士万餘人、悉縦不殺、獲戦船七百艘、宋力自此遂窮」
  19. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「[至元十一年]十月、諸軍分三道而進、文炳居左、由江並海趨臨安。先是、江陰軍僉判李世修欲降不果、文炳檄諭之、世修以城来附、令権本軍安撫使。所過民不知兵、凡獲生口、悉縦遣之、無敢匿者、威信前布、皆望旗而服。張瑄有衆数千、負海為横、文炳命招討使王世強及士選往降之。士選単舸至瑄所、諭以威徳、瑄降、得海舶五百」
  20. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「十三年春正月、次塩官。塩官、臨安劇県、俟救至、招之再返不下。将佐請屠之、文炳曰『県去臨安不百里、声勢相及、臨安約降已有成言、吾軽殺一人、則害大計、況屠一県耶』。於是遣人入城諭意、県降。遂会伯顔于臨安城北。張世傑欲以其主逃之海、文炳繞出臨安城南、戍浙江亭。世傑計不行、乃窃宋主弟吉王昰・広王昺南走、而宋主㬎遂降」
  21. ^ 藤島1986,18-19頁
  22. ^ a b 藤島1986,19頁
  23. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「伯顔命文炳入城、罷宋官府、散其諸軍、封庫蔵、収礼楽器及諸図籍。文炳取宋主諸璽符上於伯顔。伯顔以宋主入覲、有詔留事一委文炳。禁戢豪猾、無慰士女、宋民不知易主。時翰林学士李槃奉詔招宋士至臨安、文炳謂之曰『国可滅、史不可没。宋十六主、有天下三百餘年、其太史所記具在史館、宜悉收以備典礼』。乃得宋史及諸注記五千餘冊、帰之国史院。宋宗室福王与芮赴京師、遍以重宝致諸貴人、文炳独卻不受。及官録与芮家。具籍受宝者、惟文炳無名。伯顔入朝奏曰『臣等奉天威平宋、宋既已平、懐来安集之功、董文炳居多』。帝曰『文炳吾旧臣、忠勤朕所素知』。乃拝資徳大夫・中書左丞」
  24. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「時張世傑奉吉王昰拠台州、而閩中亦為宋守。勅文炳進兵、所過禁士馬無敢履践田麦、曰『在倉者吾既食之、在野者汝又践之、新邑之民何以続命』。是以南人感之、不忍以兵相向。次台州、世傑遁。諸将先俘州民、文炳下令曰『台人首効順於我、我不暇有、故世傑拠之、其民何罪。敢有不縦所俘者、以軍法論』。得免者数万口。至温州、温州未下、令曰『毋取子女、毋掠民有』。衆曰『諾』。其守将火城中逃、文炳亟命滅火、追擒其将、数其残民之罪、斬以徇。逾嶺、閩人扶老来迎、漳・泉・建寧・邵武諸郡皆送款来附。凡得州若干・県若干・戸口若干。閩人感文炳徳最深、廟而祀之」
  25. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「十四年、帝在上都、適北辺有警、欲親将北伐。正月、急召文炳。四月、文炳至自臨安。比至、帝日問来期。及至、即召入。文炳拝稽首曰『今南方已平、臣無所効力、請事北辺』。帝曰『朕召卿、意不在是也。豎子盗兵、朕自撫定。山以南、国之根本也、尽以託卿。卒有不虞、便宜処置以聞。中書省・枢密院事無大小、咨卿而行、已勅主者、卿其勉之』。文炳避謝、不許、因奏曰『臣在臨安時、阿里伯奉詔検括宋諸蔵貨宝、追索没匿甚細、人実苦之。宋人未洽吾徳、遽苦之以財、恐非安懐之道』。即詔罷之。又曰『昔者泉州蒲寿庚以城降、寿庚素主市舶、謂宜重其事権、使為我扞海寇、誘諸蛮臣服、因解所佩金虎符佩寿庚矣、惟陛下恕其専擅之罪』。帝大嘉之、更賜金虎符。燕労畢、即聴陛辞、文炳求見皇太子、帝許之、復勅太子曰『董文炳所任甚重、見畢即遣行』。既見、慰諭懇至。文炳留士選宿衛、即日就道、凡在上都三日」
  26. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「至大都、更日至中書・枢密、不署中書案。平章政事阿合馬方恃寵用事、生殺任情、惟畏文炳、奸状為之少斂。嘗執筆請曰『相公官為左丞、当署省案』。請至再四、不肯署。皇太子聞之、謂宮臣竹忽納曰『董文炳深慮、非爾曹所知』。後或私問其故、文炳曰『主上所付託者、在根本之重、非文移之細。且吾少徇則済姦、不徇則致讒。讒行則身危、而深失付託本意。吾是以預其大政、而略其細務也』」
  27. ^ 『元史』巻156列伝43董文炳伝,「十五年夏、文炳有疾、奏請解機務、詔曰『大都暑熾、非病者宜、卿可来此、固当愈』。文炳至上都、奏曰『臣病不足領機務、西北高寒、筋骸舒暢、当復自愈、請尽力北辺』。帝曰『卿固忠孝、是不足行也。枢密事重、以卿僉書枢密院事、中書左丞如故』。文炳辞、不許、遂拝。八月天寿節、礼成賜宴、帝命坐文炳上坐、諭宗室大臣曰『董文炳、功臣也、理当坐是』。毎尚食、上食輒輟賜文炳。是夜、文炳疾復作、勅賜御医日来診視。九月十三日、疾篤、洗沐而坐、召文忠等曰『吾以先人死王事、恨不為国死辺、今至此、命也。願董氏世有男能騎馬者、勉力報国、則吾死瞑目矣』。言畢、就枕卒。帝聞、悼痛良久、命文忠護喪葬藁城、令所過有司以礼弔祭、贈金紫光禄大夫・平章政事、諡忠献。子士元・士選」

参考文献

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  • 趙国忠献公神道碑
  • 元史』巻156列伝43董文炳伝
  • 藤島建樹「元朝治下における漢人一族の歩み--藁城の董氏の場合」『大谷学報』66(3)、1986年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年