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菟道皇女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菟道皇女
続柄 敏達天皇皇女

死去 敏達天皇7年(578年)以降
父親 敏達天皇
母親 広姫? 推古天皇?
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菟道皇女(うじのひめみこ、生没年未詳)は、飛鳥時代皇族敏達天皇の皇女。伊勢斎宮

『日本書紀』に敏達天皇7年(578年)に「菟道皇女」が伊勢神宮に任じられたが、すぐに「池辺皇子」(用明天皇か?)によって犯されたため解任されたと記されている[1]

人物の比定

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上記の事件のあった同時代に、「菟道」の名の付く皇女は2名いる。双方とも敏達天皇の皇女であり、一人は広姫の生んだ菟道磯津貝皇女(古事記では宇遲王)、もう一人は額田部皇女(後の推古天皇)の生んだ菟道貝蛸皇女(別名は菟道磯津貝皇女、古事記では貝蛸王、静貝王)である。菟道貝蛸皇女の別名として菟道磯津貝皇女が挙げられており、両者には混同があると考えられる[2]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』敏達天皇七年「春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女侍伊勢祠。卽姧池邊皇子、事顯而解」。「伊勢祠」は斎宮の前身と考えられている。なお、甘美媛が敵将によって強姦された際に「姧」字が用いられているように、『日本書紀』において「姧」は強姦の意味で用いられていた(金子幸子編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2007年の項目「強姦」)。
  2. ^ 菟道貝鮹皇女』 - コトバンク