荒尾成昌
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保10年(1725年) |
死没 | 寛延元年7月29日(1748年8月22日) |
改名 | 七三郎(幼名)→成昌 |
別名 | 豊前(通称) |
戒名 | 俊徳院殿 |
墓所 | 鳥取県米子市の了春寺 |
主君 | 池田宗泰→重寛 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾成庸、養父:荒尾成昭 |
兄弟 | 成昌、成煕、成真 |
妻 | 正室:荒尾甫就の娘 |
子 | 養子:成熙 |
荒尾 成昌(あらお なりまさ)は、江戸時代中期の鳥取藩家老。米子荒尾家6代。
経歴
[編集]享保10年(1725年)、鳥取藩家老荒尾成庸[1]の長男として生まれる。本家荒尾成昭の養子となり、延享元年(1744年)1月、藩主池田宗泰に初めて御目見する。延享4年(1747年)11月に成昭が死去し、寛延元年(1748年)1月20日に家督相続を認められ伯耆米子領主となるが、同年7月29日に死去した。享年23。家督は、実弟の成煕が急養子となって相続した。
先代成昭が江戸で没した際に、弘福寺に埋葬され、法名に殿号が加えられた。それを国元の荒尾家代々の菩提寺興禅寺に申し渡したところ、住職の柏仙和尚が承引せず確執を生じており、檀家を離れ、遺骸は米子了春寺に埋葬された。同年11月、荒尾家下屋敷の地に新しく顕功寺が建立され、代々の位牌を安置して、ことごとく殿号が加えられた[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『因府年表』
- 『鳥取藩史』