荒尾成煕
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保20年(1735年) |
死没 | 天明7年7月14日(1787年8月25日) |
改名 | 長十郎(幼名)→成照→成熙 |
別名 | 近江(通称) |
主君 | 池田重寛→治道 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾成庸 |
兄弟 | 成昌、成熙、成真 |
子 | 成尚、鵜殿長泰、津田元謨 |
荒尾 成熙(あらお なりひろ)は、江戸時代中期の鳥取藩家老。米子荒尾家7代。
経歴
[編集]享保20年(1735年)、鳥取藩家老荒尾成庸の次男として生まれる。
寛延元年(1748年)7月、本家を相続していた兄荒尾成昌の死去により、急養子となって家督を相続し、米子城代となる。幼いため、実父の成庸が後見と米子の仕置代行を命じられたが、成庸は翌寛延2年(1749年)3月に死去した。同年8月、初めて米子入りする。寛延3年(1750年)10月、荒尾斯就の娘と結婚する。宝暦9年(1759年)、藩主池田重寛の将軍徳川家重への初御目見の際、共に登城し、拝謁を賜る。
宝暦10年(1760年)11月、御職家老(執政家老)となり、若年の藩主重寛を補佐し、藩政を主導する。宝暦11年(1761年)10月、御根取となる。同年、宝暦の改革の推進者である郡代元締役安田成信を罷免させる。成信が推進してきた請免制を基礎とする農政は、商品作物の生産流通を重視する政策に変更された[1]。
明和8年(1771年)4月、後桃園天皇即位式の祝賀使を務める。安永7年(1778年)8月、病により辞職する。天明3年(1783年)12月、藩主池田治道の家督相続御礼言上の際に、共に登城して将軍家治に拝謁する。
天明7年(1787年)7月14日死去、享年53。家督は嫡男の成尚が相続した。
脚注
[編集]- ^ 藤野保『近世国家解体過程の研究後編 幕藩制と明治維新』
荒尾成熙が登場する作品
[編集]- 小説
- 佐伯泰英『居眠り磐音 江戸双紙』11 無月ノ橋 おこん恋々
参考文献
[編集]- 『因府年表』
- 藤野保『近世国家解体過程の研究後編 幕藩制と明治維新』