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芦部啓太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芦部 啓太郎(あしべ けいたろう、1896年明治29年)11月9日[1][2] - 1986年昭和61年)2月25日[3])は、大正末から昭和期の政治家教育者長野県駒ヶ根市長(初代)。長男は芦部信喜憲法学者[1]

来歴

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長野県上伊那郡赤穂村[4][5](現駒ヶ根市)で、芦部喜一郎、きくよ の四男として生まれた[1]。1919年(大正8年)北海道帝国大学附属水産専門部[注釈 1](現水産学部)卒業後、三菱商事に入社[1][4][5]。後に帰郷し、1923年(大正12年)赤穂公民実業学校(現長野県赤穂高等学校)の教諭に転じ[1][4][5]、1938年(昭和13年)同校長に就任し1948年(昭和23年)まで在任[5]。1948年(昭和23年)赤穂信用組合(現アルプス中央信用金庫)を設立して専務理事に就任し[4]、1951年(昭和26年)同理事長となり[1]1979年(昭和54年)まで在任した[5]

1951年、赤穂町議会議長に就任[1]。1954年(昭和29年)赤穂町長選挙に当選し[1][4]昭和の大合併では上伊那郡2町2村の新設合併を実現し、市制施行に伴い同年8月、初代駒ヶ根市長となり[1][2][4]、1955年(昭和30年)12月まで在任した[2]

また、長野県信用金庫協会長、関東地区信用金庫協会長、全国信用金庫協会理事・副会長などを歴任し、全国規模での信用金庫の強化育成に尽力し[1][4][5]、駒ヶ根商工会議所会頭も務めた[1][5]

1959年、駒ケ根市に天竜精機株式会社を設立、代表取締役。

栄典

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伝記

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  • 芦部啓太郎先生八十八年誌刊行委員会編、伊那毎日新聞社編『巌上松柏:芦部啓太郎先生八十八年の歩み』芦部啓太郎先生八十八年誌刊行委員会、1984年。※県立長野図書館所蔵

脚注

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注釈

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  1. ^ 『長野県人名鑑』18頁では北大水産学科、『日本の歴代市長 第2巻』289頁では北大農学部水産学科、『長野県歴史人物大事典』27頁では北海道帝国大学水産学科。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『長野県人名鑑』18頁。
  2. ^ a b c 『日本の歴代市長 第2巻』289頁。
  3. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、29頁。
  4. ^ a b c d e f g 『長野県歴史人物大事典』27頁。
  5. ^ a b c d e f g 『長野県風土記』526頁。

参考文献

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  • 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年。
  • 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
  • 宝月圭吾編『長野県風土記』旺文社、1986年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
  • 『長野県姓氏歴史人物大辞典』角川書店、1996年。