芦原義重
芦原 義重(あしはら よししげ、1901年3月4日 - 2003年7月12日[1])は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。芦原義倫は四男[2]。
経歴
[編集]香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て京都帝国大学工学部電気工学科卒業後、1925年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年に配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。その後、常務取締役・副社長を歴任した。
関電中興の祖
[編集]1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。折から公害や環境破壊が問題となり、地域住民の電源立地が困難になると、中央の財政界を巻き込んで政府の電源立地促進政策強化を支援、原子力開発において国民的コンセンサス確立に努めた。
さらに、発電から配電に至る広範な革新技術の開発導入を進めるとともに、設備運用・経営管理面におけるコンピュータリゼーションの推進による経営全般の近代化・効率化に努めた。
関電経営の傍ら、財政制度審議委員・科学技術審議議員、日本万国博覧会協会副会長[3]などの公職を務め、関西経済同友会の代表理事や関西経済連合会会長・日本電気協会会長・公共広告機構(現:ACジャパン)会長、更には阪急電鉄・日本生命・大阪ガスなどの社外取締役や毎日新聞社顧問を務めるなど殊に関西の財界に影響力を持ち続けた。こうしたことから「関電の中興の祖」、「関西財界の重鎮」と呼ばれていた。
関電二・二六事件
[編集]1970年に芦原は会長に退き、さらに相談役名誉会長に退いたが、その後も腹心の内藤千百里(のち副社長)を用いて社内に強い影響力を持った。ところが、1986年に『朝日ジャーナル』誌で連載されていた「企業探検」で関電が取り上げられ[4]、その一種恐怖支配とも取れるワンマンぶりが公となった(なお、この記事を執筆したのは当時龍谷大学教授だった奥村宏であった)。これで社内外に批判が噴出、翌1987年2月の関電取締会で芦原と内藤の解任動議が出され、小林庄一郎会長のイニチアシブの下、両者の解任が可決された。
関連作品
[編集]脚注
[編集]- ^ ““腐蝕企業”関西電力…公益企業を私物化した歴代経営陣の「飽くなき人事抗争」”. ビジネスジャーナル/Business Journal | ビジネスの本音に迫る (2019年10月5日). 2023年7月17日閲覧。
- ^ [関西電力] 8月20日に芦原氏「お別れの会」
- ^ 第一節 エキスポ'70開催まで― | 第四章 日本万国博覧会
- ^ 「AJ企業探検-20-関西電力--暗黒大陸」奥村宏 『朝日ジャーナル』 第28巻第37号 朝日新聞社 1986年9月12日 34頁〜38頁
外部リンク
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