舞子 (砲艦)
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艦歴 | |
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計画 | |
起工 | 1909年 |
進水 | 1909年 |
就役 | 1910年 |
除籍 | 1947年5月3日 |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:95トン 満載:130トン |
全長 | 垂線間長:36.5m |
全幅 | 6m |
吃水 | 0.6m |
主缶 | ヤーロー式石炭専焼水管缶1基 |
主機 | 直立型三段膨張式三気筒レシプロ機関2基2軸推進 |
最大 出力 |
250hp |
最大 速力 |
「マカオ」時代:11.8ノット 「舞子」時代:5ノット |
航続 距離 |
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乗員 | 40名[1] |
兵装 | 「マカオ」時代 オチキス 5.7cm(40口径)単装砲2基 7.7mm(80口径)単装機銃2丁 「舞子」時代 三年式 7.6cm(40口径)単装高角砲1基 20mm機銃1丁 |
舞子(まいこ / まひこ[2])は、日本海軍の砲艦。元はポルトガル海軍の河用砲艦「マカオ (Macau)」で、戦時中に日本海軍が購入した。艦名は神戸市垂水区の景勝地「舞子の浜」にちなんで名づけられた。
艦歴
[編集]本艦は1909年にイギリスのヤーロー社で起工された小型砲艦で、ポルトガル領マカオの警備艦として発注された艦であった。同年に竣工後、自力回航は無理なために分解して輸送船に乗せて香港へ運ばれ、現地で組み立てられ就役した。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発したが、ポルトガルは中立国となり参戦しなかった。その後1941年12月にアジア太平洋地域に戦火が広がり、マカオの周辺を占領した日本海軍がポルトガルとの交渉の上で1943年初頭購入。同年2月末に引き渡され、香港の海軍第二工作部での改装後、8月15日に二等砲艦「舞子」として軍籍簿に編入。佐世保鎮守府籍[3]。第二遣支艦隊、香港方面特別根拠地隊の広東警備隊に編入。以後、香港や広東方面の哨戒に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。
1944年9月、ト号作戦での補給路確保のための水路の掃海に従事。24日には敵機の機銃掃射で警備隊司令小倉大佐以下4名の戦死者を出した。
広東で終戦を迎え、中華民国に接収され、中華民国海軍「武鳳(または舞鳳) Wu-Feng」となったが、1949年に中華人民共和国に投降し中国人民解放軍海軍所属の「3-522」となる。1960年代に除籍された。
艦長
[編集](注)1944年10月1日以降は「砲艦長」。
脚注
[編集]- ^ 「昭和18年8月15日付 内令第1654号別表」 アジア歴史資料センター Ref.C12070179600
- ^ 「昭和18年8月15日付 達第190ノ2号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070119400
- ^ 「昭和18年8月15日付 内令第1661号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070179600
- ^ 「昭和18年8月16日付 海軍辞令公報(部内限)第1193号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092500
- ^ a b 「昭和20年5月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1800号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800
- ^ 「昭和21年6月1日付 第二復員省辞令公報 甲 第147号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072159300
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡Ⅱ』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8
- 田村俊夫「戦史発掘 異色の舶来砲艦『舞子』の数奇な生涯」
- 潮書房『丸』1998年2月号 No.622、160~167頁。
- 「Conway All The World's Fightingships 1906-1921」(Conway)
- 『歴史群像太平洋戦史シリーズ37 帝国陸海軍補助艦艇』学習研究社、2002年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Portuguese gunboat Macauポルトガル海軍「マカオ」時代の説明文。(英語)[リンク切れ]
- IJN Gunboat MAIKO本艦の艦歴について書かれたページ。(英語)