臼井幾蔵
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臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。
二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。
経歴
[編集]鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男[1]。
幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ[1]。
明治17年(1884年)医師開業試験に合格[1]。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した[1]。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという[1]。
外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている[1]。
小学校医はもちろん、信用組合評議員等地域医療や政治活動も行っていた[1]。
家族・親族
[編集]臼井(高田)家
[編集]- (鳥取市)
- 家系
- 私都の臼井家はもと高田姓を名のり、八東郡下私都村峰寺で代々医を業として住み、時には御殿医として藩に仕えたという[2]。峰寺の臼井家の墓地には古い大きな自然石に院号のついた墓碑が立ちならんでいるので、その事実があったのであろう[2]。倉吉荒尾家に高田東栄(弘化年間)という医師がいたがそれと関係あるかどうかも判らないし、初代の俗名も判らないが二代元帳(1753年没)[2]、三代俊哲(1804年没)[2]、四代栄哲(1832年没)までが高田姓を名のり、五代春暁の折に臼井姓に改ったという[2]。城中出仕と何らかの関係があると推測されるが、その由来を明らかにする資料はない[1]。
- 高田栄哲の娘が浪人山川恭徳に嫁し、その子一斎は京都吉益南涯に学んで帰郷したという[1]。そして六代宗順(宋順)の時に峯寺より中私都村市場に移った[1]。宗順は温厚篤実な性格で疑心持つことなく、他人の借財の請判をして、それがために山地田畑を失ったといい、それが移転の原因ともいわれている[1]。明治7年(1874年)頃、壱岐一二他門弟もいて内外科、産科の修業をさせたとあるので医術は相当よくしたものと思われる[1]。明治18年(1885年)2月64歳で没した[1]。
- 長男・健吉(医師)
- 二男・宗(教育者)
- 教職につき丹比小学校長等をつとめた[4]。
- 同妻・里喜(元鳥取県知事、参議院議員石破二朗の姉)
- 同息子・宗雄(眼科医)
- 昭和38年(1963年)鳥取大学医学部を卒業[4]、鳥取赤十字病院眼科勤務を経て鳥取西町で眼科医院を開業している[4]。
- 娘・寿恵子(浦富の医師北村正亮に嫁いだ[4])
系図
[編集]臼井春暁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
臼井宗順 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きし | ちよ | 臼井幾蔵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寿恵子 | 里喜 | 臼井宗 | 臼井健吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 森納著『続 因伯の医師たち』 89頁
- ^ a b c d e 森納著『続 因伯の医師たち』88頁
- ^ 森納著『続 因伯の医師たち』89-90頁
- ^ a b c d e 森納著『続 因伯の医師たち』90頁
参考文献
[編集]- 森納 『続 因伯の医師たち』 1985年 88-91頁