コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

脇坂安親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
脇坂安親
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文3年12月19日1739年1月28日
死没 文化7年5月14日1810年6月15日
改名 熊五郎(幼名)、安親
戒名 正秀院殿
墓所 京都府京都市右京区花園妙心寺隣花院
東京都中野区上高田青原寺
官位 従五位下淡路守図書頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
播磨龍野藩
氏族 堀田氏脇坂氏
父母 父∶堀田正陳
母∶水谷勝比
養父∶脇坂安種脇坂安実
兄弟 堀田正邦本多正命本多助友安親
屋代忠良
上田義当
安教安董安積安致六角広胖、釧、板倉勝長正室、阿琴、直
テンプレートを表示

脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。官位従五位下淡路守図書頭

生涯

[編集]

元文3年(1738年)12月19日、近江国宮川藩3代藩主・堀田正陳の四男として誕生した。

龍野藩3代藩主・脇坂安清の弟・安利は、宝永7年(1710年)に2000石を分与されて旗本となっていたが、その長男である安種には嗣子がなかった。このため寛延2年(1749年)2月29日、安親が養子となって2000石の家督を継いだ。脇坂家は安利の祖父にあたる安政堀田家から養子入りしており、正陳の曾祖父の堀田正信は安政の兄であった。家督相続後は小普請に所属した。

宝暦9年(1759年)に本家の6代藩主・脇坂安実が早世する。安実にも嗣子がなかったため、同年7月27日に安親が養子となりその家督を継いだ。なお、旗本としての脇坂家は廃家となる。9月1日、9代将軍・徳川家重御目見した。12月7日、従五位下・淡路守に叙位・任官する。幕命により、追手組防火職・桜田防火職・江戸城桜田門番・勅使朝鮮通信使大納言などの接待役などを務めた。天明4年(1784年)4月13日、次男の安董に家督を譲って隠居する。隠居後は図書頭を称した。

文化7年(1810年)5月14日、江戸で死去した。享年73。

系譜

[編集]

脚注

[編集]