羽風 (駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1917年度(八四艦隊案) |
起工 | 1918年11月11日 |
進水 | 1920年6月21日 |
竣工 | 1920年9月16日 |
その後 | 1943年1月23日沈没 |
除籍 | 1943年3月1日 |
要目 | |
排水量 | 基準:1,215トン 公試:1,345トン |
全長 | 102.6メートル |
全幅 | 8.92メートル |
吃水 | 2.79メートル |
機関 | ロ号艦本式缶4基 パーソンズ式タービン2基2軸 38,500馬力 |
速力 | 39ノット |
航続距離 | 14ノットで3,600カイリ |
燃料 | 重油:395トン |
乗員 | 154名 |
兵装 | 45口径12cm単装砲4門 6.5mm単装機銃2挺 53.3cm連装魚雷発射管3基 (魚雷8本) 一号機雷16個 |
羽風(はかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型の7番艦である。艦名は鳥等が飛び立つ際に生じる風、舞う人の袖から生じる風の雅称を意味する[要出典]。
艦歴
[編集]三菱長崎造船所で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。
1933年(昭和8年)3月3日に発生した昭和三陸地震のとき、「羽風」は第四駆逐隊に属して青森県の大湊要港部にあり、僚艦とともに出動した。「羽風」は岩手県の大槌で救援にあたった[1]。
日中戦争に際して、1938年(昭和13年)以降、華中の沿岸作戦に参加する。
太平洋戦争では南方で海上護衛、輸送作戦に参加した。
1942年7月14日、「富士山丸」と「鳴戸」を護衛して横須賀入港[2]。7月17日、横須賀発[2]。サイパン、父島と入港の後、8月2日に「りおん丸」を護衛してサイパンに到着[2]。8月3日にサイパンを離れ、8月8日にラバウル着[2]。
1943年(昭和18年)1月23日、ラバウルに向かう「あきつ丸」を護衛中、カビエン南西で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受け沈没。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』225-226頁及び『官報』による。
- 艤装員長
- 駆逐艦長
- (心得)北川保橘 少佐:1920年9月16日 - 1921年12月1日
- 北川保橘 中佐:1921年12月1日[5] - 1922年12月1日
- (心得)中島直熊 少佐:1922年12月1日[6] - 1923年12月1日[7]
- 中島直熊 中佐:1923年12月1日[7] - 1924年11月20日[8]
- 高山忠三 少佐:1924年12月1日 - 1925年9月21日[9]
- 中円尾義三 少佐:1925年9月21日 - 1926年12月1日 同日より予備艦
- (兼)伊藤長 少佐:1926年12月1日 - 1926年12月7日[10]
- 加藤仁太郎 中佐:1926年12月7日 - 1927年12月1日
- (兼)伊藤長 少佐:1927年12月1日[11] - 1928年5月16日[12]
- 園二郎 少佐:1928年5月16日[12] - 1928年12月10日[13]
- 帖佐敬吉 少佐:1928年12月10日 - 1930年6月20日[14]
- 新美和貴 少佐:1930年6月20日 - 1932年8月5日[15]
- 庄司芳吉 少佐:1932年8月5日[15] - 1932年11月15日[16]
- 荘司喜一郎 少佐:1932年11月15日 - 1935年10月31日[17] ※1932年11月15日より予備艦
- 大島一太郎 少佐:1935年10月31日[17] - 1936年12月1日
- 勝見基 少佐:1936年12月1日 - 1937年8月18日[18]
- 馬渡重和 少佐:1937年8月18日[18] - 1937年10月26日[19]
- (兼)勝見基 少佐:1937年10月26日[19] - 1937年12月1日[20]
- 清水逸郎 少佐:1937年12月1日 - 1938年3月5日[21] ※1938年3月5日より予備艦
- 工藤俊作 少佐:1938年3月5日[21] - 1938年7月1日[22]
- (兼)青木久治 少佐:1938年7月1日[22] - 1938年12月1日[23]
- 豊島俊一 少佐:1938年12月1日 - 1939年11月15日[24]
- 山口達也 少佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日[25]
- 前川二三郎 少佐:1940年11月15日 -
- 鹿島正徳 少佐:1942年4月20日 -
脚注
[編集]- ^ 伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」218頁、山本和重・編『北の軍隊と軍港』(地域の中の軍隊1 北海道・東北)、吉川弘文館、2015年。
- ^ a b c d 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、102ページ
- ^ 『官報』第2321号、大正9年4月30日。
- ^ a b 『官報』第2391号、大正9年7月21日。
- ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ a b 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ 『官報』第3675号、大正13年11月21日。
- ^ 『官報』第3926号、大正14年9月24日。
- ^ 『官報』第4288号、大正15年12月8日。
- ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
- ^ a b 『官報』第414号、昭和3年5月17日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第1042号、昭和5年6月21日。
- ^ a b 『官報』第1682号、昭和7年8月8日。
- ^ 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第30号 昭和12年8月18日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072200
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第81号 昭和12年10月26日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072400
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第145号 昭和13年3月7日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第204号 昭和13年7月2日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
参考文献
[編集]- 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
- 日本海軍人事手帳(?) - ウェイバックマシン(2006年5月6日アーカイブ分)
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』朝雲新聞社