沖風 (駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1917年度(八四艦隊案) |
起工 | 1919年2月22日 |
進水 | 1919年10月3日 |
竣工 | 1920年8月17日 |
その後 | 1943年1月10日戦没 |
除籍 | 1943年3月1日 |
要目 | |
排水量 | 基準:1,215トン 公試:1,345トン |
全長 | 102.6メートル |
全幅 | 8.92メートル |
吃水 | 2.79メートル |
機関 | ロ号艦本式缶4基 パーソンズ式タービン2基2軸 38,500馬力 |
速力 | 39ノット |
航続距離 | 14ノットで3,600カイリ |
燃料 | 重油:395トン |
乗員 | 154名 |
兵装 | 45口径12cm単装砲4門 6.5mm単装機銃2挺 53.3cm連装魚雷発射管3基 (魚雷8本) 一号機雷16個 |
沖風(おきかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型駆逐艦の3番艦である。艦名は沖に吹く風に由来する。
艦歴
[編集]舞鶴海軍工廠で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。
1920年(大正9年)12月、同型艦「峯風」「澤風」「矢風」と共に第2駆逐隊を編成し、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。
1930年(昭和5年)11月、第2駆逐隊は第1航空戦隊に編入し、空母「赤城」直衛として不時着機の救助を行う、いわゆる「トンボ釣り」に従事した。
1932年(昭和7年)、第一次上海事変に際して、長江水域の諸作戦に参加した。
1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[1]。
1941年(昭和16年)10月、大湊警備府付属に編入。12月8日より室蘭、厚岸方面の哨戒、津軽海峡東方での哨戒に当る。
1942年(昭和17年)4月10日、横須賀鎮守府に編入され、同日、大湊を出港し、4月13日に横須賀入港。4月25日から横須賀 - 串本間の船団護衛に従事。5月25日から東京湾口で対潜掃討を実施。6月2日から24日まで、横須賀で入渠修理を行った。7月2日から東京湾口で船団護衛に当る。9月30日から三陸沖方面で対潜掃討、船団護衛に従事。11月には横須賀に戻り、東京湾口での船団護衛を担った。
1943年(昭和18年)1月9日、横須賀を出港し東京湾口で対潜掃討に従事していたものの、1月10日、米潜水艦トリガー(USS Trigger, SS-237)の雷撃により勝浦灯台南方8海里にて沈没した。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』221-222頁及び『官報』による。
艤装員長
[編集]駆逐艦長
[編集]- (心得)池田武義 少佐:1920年7月3日[3] - 1921年12月1日[4]
- 池田武義 中佐:1921年12月1日[4] - 1922年11月10日[5]
- (兼)植松練磨 中佐:1922年11月10日[5] - 1922年12月1日
- 公家種次 中佐:1922年12月1日 - 1923年11月20日
- (心得)根岸清八 少佐:1923年11月20日[6] - 1924年5月31日[7]
- (心得)山口実 少佐:1924年5月31日 - 不詳
- 山口実 少佐:不詳 - 1925年12月1日[8]
- 斎藤二朗 中佐:1925年12月1日 - 1926年9月1日[9] ※1926年8月1日より予備艦
- (兼)藤堂功 中佐:1926年9月1日[9] - 1926年12月1日[10]
- 池田七郎 少佐:1926年12月1日 - 1927年5月28日
- 佐藤慶蔵 少佐:1927年5月28日 - 1928年12月10日 ※同日より予備艦
- (兼)古瀬倉蔵 少佐:1928年12月10日[11] - 1929年2月20日[12]
- 平岡貞 中佐:1929年2月20日[12] - 1929年4月10日[13]
- (兼)古瀬倉蔵 少佐:1929年4月10日[13] - 1929年11月30日[14]
- (兼)田原吉興 少佐:1929年11月30日[14] - 1930年11月20日[15]
- 田村劉吉 少佐:1930年11月20日 - 1932年5月2日[16]
- 博義王 少佐:1932年5月2日 - 1932年12月1日
- 村上暢之助 少佐:1932年12月1日 - 1934年11月6日 ※同日より予備艦
- (兼)成田茂一 少佐:1934年11月6日[17] - 1934年11月15日[18]
- 沢村成二 少佐:1934年11月15日[18] - 1935年7月18日[19]
- (兼)吉田義行 少佐:1935年7月18日[19] - 1935年12月11日[20]
- (兼)白石長義 少佐:1935年12月11日[20] - 1936年6月15日[21]
- (兼)亀山峯五郎 中佐:1936年6月15日[21] - 1937年3月1日[22]
- 竹内虎四郎 少佐:1937年12月1日 - 1937年12月9日[23]
- (兼)大田春男 少佐:1937年12月9日[23] - 1938年3月5日[24]
- 赤沢次寿雄 少佐:1938年3月5日 - 1938年12月15日[25]
- (兼)川島良雄 少佐:1938年12月15日 - 1939年1月15日[26]
- 宮内新一 少佐:1939年1月15日 - 1939年3月18日[27]
- 上杉義男 少佐:1939年3月18日 - 1940年10月15日[28]
- 山名寛雄 少佐:1940年10月15日 -
- 末次信義 少佐:1942年4月13日 -
- 井内儀三郎 少佐:1942年11月7日 - 1943年1月10日戦死
脚注
[編集]- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ 『官報』第2363号、大正9年6月18日。
- ^ a b c 『官報』第2377号、大正9年7月5日。
- ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ a b 『官報』第3085号、大正11年11月11日。
- ^ 『官報』第3375号、大正12年11月21日。
- ^ 『官報』第3531号、大正13年6月2日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ a b 『官報』第4208号、大正15年9月2日。
- ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第642号、昭和4年2月21日。
- ^ a b 『官報』第682号、昭和4年4月11日。
- ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 『官報』第1170号、昭和5年11月21日。
- ^ 『官報』第1599号、昭和7年5月3日。
- ^ 『官報』第2356号、昭和9年11月7日。
- ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2563号、昭和10年7月19日。
- ^ a b 『官報』第2684号、昭和10年12月12日。
- ^ a b 『官報』第2835号、昭和11年6月16日。
- ^ 『官報』第3046号、昭和12年3月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第105号 昭和12年12月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第145号 昭和13年3月7日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第287号 昭和14年1月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第315号 昭和14年3月18日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
参考文献
[編集]- 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。