羽生氏熟
羽生氏熟 はにゅう うじなり | |
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生年月日 | 1849年4月7日 |
出生地 |
日本 出羽国久保田城下 (現・秋田県秋田市) |
没年月日 | 1932年1月9日(82歳没) |
在任期間 | 1895年7月16日[1] - 1895年11月22日[1] |
羽生 氏熟(はにゅう うじなり、1849年4月7日〈嘉永2年3月15日〉- 1932年〈昭和7年〉1月9日)は、日本の殖産家、政治家。第2代秋田市長[1]。旧出羽国久保田藩の右筆 であった[2]。歌人としては、眠鶴と号した[3]。
人物略歴
[編集]嘉永2年(1849年)3月15日、久保田城下(現、秋田県秋田市)に生まれる[3]。若くして久保田藩の右筆を務めた[2]。明治維新後、太政大臣に士族授産を建議し、容れられて明治12年(1879年)、秋田県に秋成社をおこした[2][3]。以後、帰農した130名の士族とともに秋田県河辺郡大張野の開拓に従事し、養蚕や機業を奨励し、さらに養蚕所や農学校を開設した[3]。一方で、同県南秋田郡将軍野の開拓にもたずさわっている[3]。
明治14年(1881年)8月13日、気吹舎の門人であった小谷部甚左衛門らが、秋田市日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀る「平田神社」の創建を秋田県令石田英吉に願い出ているが、氏熟もそれに名を連ねた。平田神社は、今日の彌高神社にあたる。
明治23年(1890年)、久保田城址が陸軍省から旧藩主佐竹氏に払い下げられ、うち本丸・二の丸部分は秋田市が佐竹氏から借り受け、公園とすることが決まった。これが現在の千秋公園であるが、明治25年(1892年)、氏熟らの「有終会」は、桜の苗木1170株を公園に植栽するため、市に寄贈している。
明治28年(1895年)7月16日、第2代秋田市長に就任した[2][3]。同年11月22日、市長を辞任[注釈 1]。
明治35年(1902年)、秋成社解散ののち、秋田県勧業課長、第四十八国立銀行取締役、秋田電気取締役などを歴任し、地方の産業発展のため力を尽くした[3]。
大正元年(1912年)10月、氏熟は、安政から慶応にかけて(1855年 - 1867年)、久保田藩士であった平田銕胤・延胤(当時はすでに2人とも故人)が京都・江戸に奔走し、国事秘密を探偵して藩主佐竹義堯に奉じた自筆報告の書である『風雲秘密探偵録』(東京大学史料編纂所所蔵)の序文を書いている[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 辞任理由は、公園問題であった。
出典
[編集]- ^ a b c “歴代市長および副市長(助役)の紹介”. 秋田市. 2024年4月30日閲覧。
- ^ a b c d デジタル版日本人名大辞典+Plus「羽生氏熟」
- ^ a b c d e f g 20世紀日本人名事典「羽生氏熟」
- ^ 宮地(1994)pp.239-240
参考文献
[編集]- 宮地正人 著「幕末平田国学と政治情報」、田中彰 編『日本の近世 第18巻 近代国家への志向』中央公論社、1994年5月。ISBN 4-12-403038-X。