羽梨山神社
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羽梨山神社 | |
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所在地 | 茨城県笠間市上郷3161 |
位置 | 北緯36度18分24.5秒 東経140度14分48.4秒 / 北緯36.306806度 東経140.246778度座標: 北緯36度18分24.5秒 東経140度14分48.4秒 / 北緯36.306806度 東経140.246778度 |
主祭神 | 木花咲耶姫命 |
社格等 |
式内社 旧郷社 |
創建 | 天智天皇3年(664年) |
本殿の様式 | 入母屋造 |
例祭 | 11月23日 |
地図 |
羽梨山神社(はなしやまじんじゃ)は、茨城県笠間市上郷にある神社。祭神は木花咲耶姫命。常陸国茨城郡の式内小社で、旧社格は郷社。
由緒
[編集]古くは羽梨山の中腹に鎮座していた。 天智天皇3年(664年)、桜の多い羽梨山の中腹に木花咲耶姫命を祀る祠を建立したこととをきっかけに、「花白山神社」と呼ばれるようになった。[1]
延暦22年(803年)には坂上田村麻呂が陸奥征討の戦勝祈願し、社殿を寄進した。[2]
平将門の乱では、平貞盛が弓矢、砂金を奉納し、平将門征伐の戦勝祈願をした。[1]
平安時代には源頼義、源義家が矛、太刀、鎧、神馬を奉納した。神馬の鐙のみ現存する。 鎌倉時代には鎌倉から移り住んだ宍戸家政が社殿を建て替える。[2]
天正11年(1542年)には兵火により羽梨山の中腹の社殿が焼失し、現在の鎮座地となる山麓の熊野権現に合祀された。寛文8年(1668年)には社殿が新造された。 元禄16年(1703年)には現在の明神石鳥居、延享4年(1747年)には現在の社殿を建立した。 [2]
明治時代の神仏分離令により、別当寺の普賢院の管理から離れる。
社格
[編集]神階
[編集]羽梨神
近代社格制度
[編集]羽梨山神社
祭事
[編集]- 元旦祭(1月1日)
- 節分祭(2月3日)
- 祈年祭(4月11日)
- 例大祭(11月第2土・日曜日)
- 新嘗祭(11月23日)[2]
境内
[編集]-
拝殿
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本殿
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鳥居
交通
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 社伝より
- ^ a b c d e 境内由緒石碑より(2019年7月29日)
- ^ 『日本三代実録』《卷十八貞觀十二年(八七〇)八月廿八日戊申》○廿八日戊申。先是。對馬嶋言。境近新羅。動恣侵掠。既無其師。弩機何用。絶域孤嶋。誰救警急。廼者有聞。彼國寇賊。學釼習戰。若不豫。恐難應卒。望請置弩師一員。勅。大宰府簡擇其人。補任置之。立爲恒例。』授伊豫國正三位大山積神從二位。正四位下礒野神。野間神。瀧神。伊豫村神並正四位上。正五位下村山神正五位上。常陸國從四位上筑波男神正四位下。從四位下筑波女神從四位上。從五位下羽梨神從五位上。參河國正五位下智立神。砥鹿神並正五位上。從五位上狹投神正五位下。出羽國白磐神。須波神並從五位下。
- ^ 『日本三代実録』《卷四十八仁和元年(八八五)九月七日戊子》七日戊子。授常陸國從五位上羽梨神正五位下、從五位下村上神從五位上。」勅、停廃山城・河内・和泉・攝津等國江長并贄戸、充徭丁各四十人。但和泉國五十人。停近江國筑摩御厨長并調丁、充徭丁。
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『明治神社誌料 : 府県郷社. 上』茨城縣之部 西茨城郡 郷社
- [著者] 明治神社誌料編纂所 編
- [出版者] 明治神社誌料編纂所
- [出版年月日] 明治45年(1907年)