羽柴雄輔
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日[1] - 大正10年(1921年)12月5日[1])は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面[1]、別名は久明または良策[1]。
経歴
[編集]飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる[1]。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び[1]、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する[1]。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった[1]。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める[1]。
1884年(明治17年)、坪井正五郎・神田孝平・三宅米吉・鳥居龍蔵・白井光太郎・小金井良精らによって東京に「人類学会」が組織されると、1886年(明治19年)入会した[1]。同会では『人類学会報告』や『考古學雑誌』に積極的に論文を発表し[1]、1891年(明治24年)には磨製石鏃をはじめて図示した。
徐々に庄内に同好者の関心も高まり、1890年(明治23年)羽輔の発起によって鶴岡に「奥羽人類学会」が発足した[1]。初代会長には松森胤保が推挙され[1]、樋越儀平、山岸貞宗、門山周智、高野栄明等が活躍した。「奥羽人類学会」は「東京人類学会」と並び、著名な学者や研究家と交流、学界誌に寄稿するなど、その活動はめざましかった[1]。
1906年(明治39年)11月から東京帝国大学史料編纂掛となり[1]、明治の終わりから大正に入ると、慶應義塾図書館館長・田中一貞の引きで、小松林蔵、国分剛二らと共に館員となり、その間に大著・『松山藩史料』全42巻を完成させた。他、柳田國男とも交流を持った。
著書
[編集]慶應義塾大学所蔵
[編集]- 『飛嶋図画』
- 『古物類集』
- 『荘内古事抄総目録』
- 『摘草籠』
- 『目覚まし時計』
酒田市本間美術館蔵書
[編集]- 『千瓢庵集書』