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網走五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

網走 五郎(あばしり ごろう、1944年9月10日 - )は、日本の元俳優[1]ボクシングトレーナー。本名は渡辺 尚武(わたなべ なおたけ)北海道出身。

北方領土まで自力で泳ぎ着くパフォーマンスをした事で知られる。

抗議活動

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網走五郎の特筆性はソ連(現・ロシア)が実効支配している北方領土へ泳いで渡り、ソ連政府に北方領土返還の抗議文を手渡したことである。抗議文の内容は以下の通り。

私は単身、泳いで日本からやって来た網走五郎と言う者です。年齢は三十二歳。私は貴国に亡命したくてやって来たのではありません。北方領土返還の抗議に来たのです。歯舞・色丹・国後・択捉の四島は日本固有の領土です。早急に返還して下さい。1945年8月、日本は広島・長崎に原爆攻撃を受け、瀕死の状態になっていたが、貴国はこの時、日ソ不可侵条約を一方的に破って日本攻撃を開始したのです。当時、日本は、日・独・伊三国軍事同盟を結んでいたので、貴国がヒトラードイツ軍に押しまくられていた時、日本も貴国に攻撃を仕掛け、貴国を敗北に導くことができたにもかかわらず、日本は条約を守って攻撃を仕掛けなかったのです。ところが貴国は、日本弱しとみるや条約を踏みにじって日本攻撃を開始し、千島・樺太を占領した。その後未だ占領をし続け、日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島すら返還しないのは、畜生にも劣ると言わねばなりません。日本から直接攻撃を受け、大きな被害を被ったアメリカですら、五年前には沖縄を返還しています。貴国も日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を早急に返還すべきです。私はこの四島が返還されるまで、当分貴国に置かせてもらいます。私の後ろには一億一千万人の日本国民がついています。 ソ連政府殿 — 網走五郎

貝殻島へ向かって泳ぎ、座礁船で休息中にソ連の警備艇に連行された[2]

略歴

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ボクシングとの関わり

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大学中退後、プロボクサーを目指して協栄ボクシングジムに入ったが裸眼視力が悪かったためプロテストの受験ができなかった[7][8]

在職中から護国神社と同じ敷地内にある奥武山ボクシング会館で青少年にボクシング指導を無報酬で行い続けている[7][8]

著書

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  • 北方領土まで泳いだ男 (自費出版 1979年)
  • 網走五郎伝 (河出書房新社 2004年)
  • 網走五郎・神社物語 (アマゾン電子書籍 2017年)

出演作品

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  • 時代はサーカスの象にのって (1969年)
  • イエス (1969年)
  • 犬神 (1969年)
  • オデッセイ69 (1969年)
  • ドキュメンタリー刺青 (1969年)
  • 書を捨てよ町へ出よう(1969年)
  • ガリガリ博士の犯罪 (1970年)
  • ブラブラ男爵 (1970年)
  • 東京零年(1970年)
  • 人力飛行機ソロモン (1970年)
  • 力石徹告別式 (1970年)
  • トマトケチャップ皇帝 (1971年)

脚注

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  1. ^ 萩原朔美著「演劇実験室・天井桟敷の人々」フレーベル館 2000年8月1日発行
  2. ^ a b 北海道新聞 昭和52年7月27日夕刊
  3. ^ 文藝春秋 昭和53年8月1日発行「北方領土まで泳いだ男」
  4. ^ 北海道新聞 昭和52年12月12日夕刊
  5. ^ 朝日新聞 昭和52年12月14日朝刊
  6. ^ 河出書房新社 「網走五郎伝」
  7. ^ a b 情熱を託す ボクシングの「息子」へ プロ断念の渡辺さん”. 沖縄タイムス (2010年7月28日). 2011年5月1日閲覧。
  8. ^ a b 昼は神主、夕方はボクシングコーチ/県護国神社の渡辺さん”. 琉球新報 (2003年5月22日). 2012年6月3日閲覧。