紀麻路
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天平宝字元年?[1](757年) |
別名 | 麻呂 |
官位 | 従三位中納言 |
主君 | 元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇 |
氏族 | 紀氏 |
父母 | 父:紀大人 |
兄弟 | 麻路、宿奈麻呂、男人、宇美、奈賀岐娘 |
子 | 広名、広庭、小楫、鯖麻呂 |
紀 麻路(き の まろ)は、奈良時代の公卿。名は麻呂とも記される。御史大夫・紀大人の子[2]。官位は従三位・中納言。
概要
[編集]養老4年(720年)従五位下へ叙爵し、翌養老5年(721年)式部少輔に任ぜられる。
天平6年(734年)従五位上。天平10年(738年)紀男人が没すると一族の氏上的立場となり、天平12年(740年)正月に正五位下に昇叙されると、同年10月の藤原広嗣の乱の最中に後騎兵大将軍に任官、さらに12月正五位上に続けて昇叙され、天平14年(742年)には従四位下と聖武朝の後半より急速に昇進し、天平15年(743年)参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として民部卿・南海道鎮撫使・右衛士督を兼ねる一方、天平18年(746年)従四位上、天平20年(748年)正四位上と引き続き順調に昇進した。なお、この間の天平17年(745年)には甲賀宮の留守役を務めている。
天平21年(749年)4月には、中臣益人、忌部鳥麻呂らとともに、幣帛を伊勢大神宮に奉納している。同年、天平勝宝元年と改元し、孝謙天皇の即位に伴い、従三位・中納言に叙任される。のち、式部卿・大宰帥を歴任する。天平勝宝9歳(757年)3月に孝謙天皇・光明皇太后・藤原豊成・藤原仲麻呂らと画策して皇太子・道祖王を廃した[3]。その後『続日本紀』に麻路の消息に関する記載がないことから、まもなく薨去したと考えられる。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 養老4年(720年) 正月11日:従五位下
- 養老5年(721年) 6月26日:式部少輔
- 天平6年(734年) 正月17日:従五位上
- 天平12年(740年) 正月13日:正五位下。10月23日:後騎兵大将軍。11月21日:正五位上
- 天平13年(741年) 7月23日:式部大輔
- 天平14年(742年) 9月28日:従四位下
- 天平15年(743年) 5月5日:参議
- 天平17年(745年) 5月5日:甲賀宮留守役
- 天平18年(746年) 3月5日:兼民部卿。4月5日:兼南海道鎮撫使。4月22日:従四位上。9月25日:兼右衛士督
- 天平20年(748年) 2月19日:正四位上(越階)。4月22日:装束司(元正上皇葬儀)
- 天平21年(749年) 4月5日:伊勢奉幣使。天平勝宝元年7月2日:従三位、中納言。8月10日:兼式部卿
- 天平勝宝2年(750年) 正月16日:兼式部卿[1]
- 天平勝宝4年(752年) 9月7日:大宰帥
- 天平勝宝6年(754年) 7月20日:装束司(藤原宮子葬儀)