紀元前285年
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世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
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十年紀 |
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年 |
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紀元前285年(きげんぜん285ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ガイウス・クラウディウス・カニナとマルクス・アエミリウス・レピドゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元469年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前285年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]エジプト
[編集]- 6月26日 - エジプトのプトレマイオス1世は退位して、3年間の共同統治を行った末子のプトレマイオス2世に王位を継がせた。
- アレクサンドリアの湾に建設された高さ110mのアレクサンドリアの大灯台が完成し、地中海東部の船の目印となった。これは、クニドスのソストラトスによってプトレマイオス2世のために設計されたもので、世界の七不思議の1つとなった。
セレウコス朝
[編集]中国
[編集]- 秦の昭襄王が楚の頃襄王と宛で会合し、趙の恵文王と中陽で会合した。
- 秦の蒙武が斉を攻撃し、9城を陥落させた。
- 斉の湣王は前年に宋を滅ぼしたことに気をよくして、南方の楚や西方の趙・魏・韓に進攻し、東周・西周を併呑して、自分が天子となる計画を立てた。狐咺がこれに反論したため、檀衢で斬刑に処し、陳挙が直言して諫めたため、東閭で殺害した。
- 燕の昭王は楽毅とともに斉を攻撃する計画を立てた。楽毅が趙と盟約するための使者として赴き、別の使者が楚や魏に向かって、斉を攻撃する利害を説いた。諸国は斉の湣王の横暴のために害を被っていたため、燕と連合して斉を攻撃する計画に参加した。
誕生
[編集]死去
[編集]脚注
[編集]注釈
出典