コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

米田虎雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米田虎之助から転送)
米田虎雄

米田 虎雄(こめだ とらお、1839年3月10日(天保10年1月25日) - 1915年大正4年)11月27日[1])は、幕末熊本藩家老明治から大正期の日本宮内官僚侍従長宮中顧問官陸軍中佐子爵。諱・是保、通称・虎之助[2]明治天皇の側近[3]

経歴

[編集]

肥後国熊本城下町内坪井で熊本藩家老・長岡是容(監物)の二男として生まれる[2]慶応2年9月1866年)兄是豪を継いで熊本藩家老に就任[2][3]戊辰戦争においては藩兵を率いて東北各地に転戦した[2]。明治2年8月1869年)熊本藩大参事に就任[4]。その後、権大参事として実学党による藩政改革を行った[2]

1873年(明治6年)1月9日、宮内省に転じ侍従番長に就任[4]1877年(明治10年)8月29日、三等侍補となり[4]、天皇親政運動に加わった[3]。同年9月3日、陸軍中佐兼三等侍補、1878年(明治11年)12月24日、陸軍中佐兼侍従長に就任[4]1988年(明治21年)4月20日、兼主猟官[5]となる。1892年(明治25年)10月15日、父監物の維新の功により男爵を叙爵[1][6]1904年(明治37年)2月16日、侍従兼主猟官に加えて宮中顧問官を兼任[7]1908年(明治41年)、主猟頭となり[3]、同年11月7日、宮中顧問官を依願免官となる[8]1914年(大正3年)5月13日、多年の輔弼の功により子爵に陞爵し[1]、兼任侍従職幹事を依願免官、主猟頭の専任となる[9]。墓所は東海寺大山墓地

栄典

[編集]
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、614-615頁。
  2. ^ a b c d e 『明治維新人名辞典』415頁。
  3. ^ a b c d 『朝日日本歴史人物事典』694頁。
  4. ^ a b c d 『百官履歴 下巻』393-395頁。
  5. ^ 『官報』第1440号、明治21年4月21日。
  6. ^ 『官報』第2793号、明治25年10月18日。
  7. ^ 『官報』第6185号、明治37年2月17日。
  8. ^ 『官報』第7612号、明治41年11月9日。 1912年(大正元年)8月1日、大正天皇即位による朝見式が行われたが、出席した財部彪海軍次官によれば、大正天皇は勅語朗読中に言葉に詰まり、それを見た米田は大正天皇の体調も踏まえず「情けない」と洩らしたとされる。
  9. ^ 『官報』第536号、大正3年5月14日。
  10. ^ 『官報』第2941号「叙任及辞令」1893年4月22日。
  11. ^ 『官報』第285号「叙任及辞令」1913年7月11日。
  12. ^ a b 『官報』第998号「叙任及辞令」1915年11月29日。
  13. ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
  14. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  15. ^ 『官報』第2793号「叙任及辞令」1892年10月18日。
  16. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  17. ^ 『官報』第7652号「叙任及辞令」1908年12月26日。
  18. ^ 『官報』第536号「叙任及辞令」1914年5月14日。
  19. ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
  20. ^ 『官報』第6594号「叙任及辞令」1905年6月24日。

参考文献

[編集]
  • 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
公職
先代
戸田氏共
日本の旗 主猟頭
1908年 - 1915年
次代
戸田氏共
先代
(新設)
日本の旗 主馬権頭心得
1886年 - 1888年
次代
香川敬三
主馬頭
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
米田家初代
1914年 - 1915年
次代
米田国臣
先代
叙爵
男爵
米田家初代
1892年 - 1914年
次代
陞爵