米田三星
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米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 2000年1月23日)は日本の小説家、医師。本名は庄三郎。
人物
[編集]1932年(昭和7年)、大阪帝国大学医学部卒業。1937年(昭和12年)、日華事変により応召、野戦病院付き軍医として華北、華中を転々し、翌年帰国。1945年(昭和20年)、奈良県立医学専門学校(現奈良県立医科大学)創設により、同校教授となり、1948年(昭和23年)、退職して診療所を開業する。
1931年(昭和6年)、投稿した『生きてゐる皮膚』が『新青年』に採用され、同年に他二編、翌年に一編を『新青年』に発表。他に『サンデー毎日』や『大阪時事新報』などにも作品を執筆していた。戦前では小酒井不木、木々高太郎と並んで、その医学的素養を活かした作家で、作品数こそ少ないが、怪奇犯罪小説の面で忘れがたい作家の一人である。木々高太郎のデビュー作『網膜脈視症』を読んで創作意欲を失い、四編で筆を断っている。
作品
[編集]- 「生きている皮膚」(『新青年』1931年(昭和6年)1月号掲載)
- 「蜘蛛」(『新青年』1931年(昭和6年)6月号掲載)
- 「告げ口心臓」(『新青年』1931年(昭和6年)9月号掲載)
- 「血劇」(『新青年』1932年(昭和7年)4月号掲載)
- 『戦前探偵小説四人集』(論創ミステリ叢書、2011年6月)収録
- 「児を産む死人」(『新青年』1932年(昭和7年)7月号掲載)
- 『戦前探偵小説四人集』(論創ミステリ叢書、2011年6月)収録
- 「森下雨村さんと私」 (随筆)
- 『戦前探偵小説四人集』(論創ミステリ叢書、2011年6月)収録