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築地病院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

築地病院(つきじびょういん,Tsukiji Hospital)は、1875年明治8年)5月22日に、東京府築地に開院した、キリスト教系(スコットランド一致長老教会)の病院である。正式には健康社と呼ばれた。また、1896年(明治29年)6月13日に「愛恵病院」[注釈 1]が築地居留地37番に移転・改称して開設されたキリスト教系(米国聖公会)の病院も「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)という名称であり、こちらの病院は聖路加国際病院の前身である[1]

歴史

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築地病院(健康社)の歴史

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1874年(明治7年)3月に来日したスコットランド一致長老教会の医療宣教師ヘンリー・フォールズが、同僚の宣教師であるロバート・デイヴィッドスンから洗礼を受けて日本語教師を務める三浦徹(後に日本基督教会の牧師として活躍)の南小田原町3丁目10番の持ち家で、同年1874年(明治7年)に「築地病院」を開業する。その後、フォールズらは、南小田原町4丁目9,10番の土地と建物を櫛部漸名義で借り受けることができ、翌1875年(明治8年)1月に同地に西洋風造作の病院が完成し、同年5月に正式開業となった[2][3]

大阪では、前年の1874年(明治7年)1月に、米国聖公会宣教医師のヘンリー・ラニングによって米国伝道会施療院(現・聖バルナバ病院)が開設されていたが、フォールズの築地病院は施療棟と入院棟を持つ、日本人のために開かれた東京で最初の西洋医学の伝道病院であった[3]。 病院は患者の治療だけではなく、若い医師たちのための教育の場でもあり、幾多の患部解剖により日本人医師たちに人体の実際を示しての教育が行われた。また、多くの眼科疾患の患者への手術治療の経験から視覚障害者教育の端緒を開くこととなった[3]

築地病院の開業にあたって、スコットランド一致長老教会海外伝道局が600ポンドを出資するなど、キリスト教系の病院である。ミッションの宣教目的のために医療費は無料だったので、民間には大盛況で年間の来院者は14000人ほどになった。

フォールズは外科医、眼科医として活躍し、フォールズはグラスゴー医科大学の防腐処理術やコレラの治療などを導入した。外国人薬剤師や日本人助手櫛部漸(東京公会会員)などを雇ったが、後に、櫛部漸は京橋区桶町で開業医になった。

フォールズの築地病院では、日本で初めて視覚障害者教育のための会合も持たれ、楽善会が組織されて後の訓盲院の設立へと繋がる揺藍の地となったほか、東京一致神学校明治学院の前身)の講義の一部も開かれた[3]。また、フォールズは築地でエドワード・モース大森貝塚発掘に協力する中で、土器に残された指紋に興味を持ち、指紋捜査法を発見している。

フォールズと親交のあったウィリアム・エドワード・エアトン工部大学校教授)の妻で医師のマチルダ・チャップリン・エアトン(Matilda Chaplin Ayrton,1846-1883)が、築地病院に産科学校を開設し、産科術の講義を行った。産科学校が開校した時期は明らかではないが、1876年(明治8年)夏から1876年(明治9年)10月までの間に開校したと考えられる。1876年(明治9年)9月には、同年10月1日からエアトン夫人が産科術の講義を行う旨の新聞広告が複数出され、広く学生を集めた[4]。また、エアトン夫人は築地病院の図書館に多くの本を寄贈し、博物室にも寄付するなど、病院における医学教育を支援した[3]

1876年(明治9年)秋には、前年1875年(明治8年)10月4日に夫人を伴って来日し築地で宣教活動を行っていたスコットランド一致長老教会の宣教師サミュエル・G・マクラーレン(Samuel Gilfillan McLaren,1840-1914)が、築地病院で週2回の夜間英会話教室を開いた[5]

1877年(明治10年)には、築地病院のホールで科学とキリスト教の講演会(講義)も開かれており、グイド・フルベッキの講演のほか、フォールズ、櫛部漸ジェームス・ハミルトン・バラ津田仙三浦徹ヒュー・ワデル、R.グリーン、ミスターShimaらの講演が行われた[5]

1882年(明治15年)頃からは、築地病院の患者数が大幅に減少し、同年10月にフォールズは休暇のために一時帰国した[6]。その後、再来日を果たすが、 フォールズは夫人が病気となったことから1886年(明治19年)に離日し[6]、その後病院は次第に荒廃し、1888年(明治21年)に閉院となった[3]。 同年1888年(明治21年)5月7日には、工手学校(現・工学院大学)が、南小田原町4丁目7,8番地にあった築地病院の建物と敷地を購入して、新たに教室を増築して同年9月7日に移転した[7][8]。その後、工手学校は1923年(大正12年)9月の関東大震災によって校舎が全焼し、同年11月に淀橋町(現在の新宿区)にあった日本中学校を仮校舎として築地から移転した[7]

近年までルドルフ・トイスラーが、この病院の建物を買い取り、聖路加病院を設立したとされてきたが、この築地病院(健康社)の建物と敷地は上述の通り、工手学校が購入して学校を開設していることに加え、トイスラーが設立した聖路加病院は後述の愛恵病院の流れを汲む聖公会系の築地病院(英語名:St. Luke's Hospital)を前身とする病院であり[1]スコットランド一致長老教会系の築地病院(健康社)とは別の病院である[2][3]

築地病院(愛恵病院の後身)の歴史

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米国聖公会宣教医フランク・ハレル1884年(明治17年)3月に来日し、深川聖三一教会近くに「大橋診療所」を開設する[9]。ハレルが辞任した後、1890年(明治23年)11月1日にチャニング・ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を開設して院長となった[1]

1896年(明治29年)6月13日に愛恵病院が築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称される。1899年(明治32年)秋には、築地病院が閉鎖。長田院長が辞任する[1]

1900年(明治33年)2月2日に、チャニング・ウィリアムズの後任であるジョン・マキム米国聖公会本部への要請が実り、ルドルフ・トイスラーが夫妻で来日。1901年(明治34年)1月後半にはトイスラーが佃島に聖アンデレ診療所を開設。1901年(明治34年)2月12日に、トイスラーが旧築地居留地37番(築地病院跡地)に築地病院を前身とする「聖路加病院」(現在の聖路加国際病院)(英語名:St. Luke's Hospital)を開設[1]。開設された聖路加病院の英語名は、築地病院と同じ「St. Luke's Hospital」であり、閉鎖されていた聖公会系の築地病院の再建でもあった[1]

その他

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東京公会の長老で後に牧師になった奥野昌綱が築地病院(健康社)に入院中に、『やまいの床にも』と題する讃美歌を作った。それが後に讃美歌397番になった。

参考文献

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  • 中島耕二; 辻直人; 大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』新教出版社〈日本キリスト教史双書〉、2003年。ISBN 4-400-22740-5 

脚注

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注釈

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  1. ^ 愛恵病院は1890年(明治23年)11月1日にチャニング・ウィリアムズの要請により医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を開設して院長となった病院である。

出典

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  1. ^ a b c d e f 聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して― 筑波学院大学紀要第13集 川崎晴朗 (PDF)
  2. ^ a b 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン(Nipon)滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観』 -第5章 東京の生活-」『明治大学教養論集』第530巻、明治大学教養論集刊行会、2017年12月、201-220頁、ISSN 0389-6005 
  3. ^ a b c d e f g 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観-』第11章」『明治大学教養論集』第548巻、明治大学教養論集刊行会、2020年9月、111-127頁、ISSN 0389-6005 
  4. ^ 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観-』[第16章]」『明治大学教養論集』第570巻、明治大学教養論集刊行会、2023年9月、207-239頁、ISSN 0389-6005 
  5. ^ a b 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観-』[第15章]」『明治大学教養論集』第564巻、明治大学教養論集刊行会、2022年9月、317-341頁、ISSN 0389-6005 
  6. ^ a b 藤本 大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動 : ミッション病院の事業とその協力者たち」、東京大学、2019年3月。 
  7. ^ a b 築地居留地研究会『築地時代の工手学校―工学院大学のルーツ』 (PDF)
  8. ^ 中央区観光協会・中央区観光協会特派員ブログ 『中央区歴史逍遥<7> 近代国家 殖産興業の担い手養成 ~工手学校創立の地~』 2019.8.13
  9. ^ ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々 (PDF)