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ジョン・セルウッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョン・セルウッド(John James Sellwood、1866年10月19日 - 1944年4月29日)は、アメリカ合衆国アメリカ人医師、軍医オルガン奏者。明治時代に米国聖公会から日本に派遣された宣教医師(medical missionary)[1]オレゴン州ポートランドのセルウッド病院(後のポートランド総合病院/Portland General hospital)創設者であり、叔父にちなんで名付けられたポートランドのセルウッド地区で45年間医療に従事した。また、アメリカ陸軍軍医として従軍し、最初の陸軍救急隊をポートランドで結成するとともに、第一次世界大戦におけるフランス戦線に参加した[2]

人物・経歴

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1866年10月19日、アメリカオレゴン州オレゴンシティ生まれ。父のジョン・W・セルウッド(John W. Sellwood)は、米国聖公会の牧師としてオレゴンシティの教会で司牧し、後にポートランドのセント・デイビッド教会(St. David's church)を組織し、その初代牧師となった[2]。父のもとで、セルウッドは教会の初代オルガン奏者を務めた[2]

1878年にセルウッドはオレゴン州イーストポートランド英語版へ移り、Bishop Scott academyに通い、1887年に同州セイラムにあるウィラメット大学医科大学(Willamette University College of Medicine)を卒業し、M.D.(Medical Doctor)を取得した[1][2]

カナダ太平洋汽船会社(Canadian Pacific Steamship company/現・CP Ships英語版)の船医として3年間勤務したのち[2]米国聖公会海外伝道委員会より、日本への派遣宣教医師(medical missionary)に任命される。既に1888年(明治21年)5月に来日したヴィクター・ローとともに、東京で以前に医療宣教活動を行ったフランク・ハレルの後任の位置づけであった[1]

医療宣教医師として来日

セルウッドは1890年(明治23年)3月11日に来日し、築地居留地18番で医療宣教に従事する。その場所は当時、イギリス人薬剤師トンプソン(Arthur W. Thompson)の所有地であり、トンプソンとともにセルウッドは、同年5月5日より診療活動を開始する。トンプソンは1878年頃からスコットランド一致長老教会の医療宣教師ヘンリー・フォールズ築地病院(健康社)で働いていた[1]。築地病院(健康社)は次第に荒廃し、フォールズが1886年(明治19年)に帰国したのち[1]1888年(明治21年)に閉院となっていた[3]

セルウッドは、この1890年(明治23年)に、110人の患者を診察し、428回の往診を行ったことが分かっている[1]スコットランド一致長老教会のフォールズが1874年(明治7年)3月に来日した折から、米国聖公会の主教であるチャニング・ウィリアムズは温かく迎え、連携して活動したが[4]、セルウッドの来日後も、以前にはフォールズの宣教師館でもあった築地居留地18番地において診療活動を行うなど、スコットランド一致長老教会と米国聖公会は、医療事業でも日本で連携して活動を行った[1]

また、1880年代の日本では、西洋医学を学んで開業する日本人の医師も多くなり、外国人の医療宣教師たちもこれまでと同様に医療を行うだけでは、患者の獲得が難しくなる状況も生じていたことから、アメリカン・ボードの宣教医師のジョン・カッティング・ベリーやテイラー(Wallace Taylor)や、同じく米国聖公会のヘンリー・ラニングが行う慈善医療をセルウッドも実施した[1]

1891年(明治24年)春には、セルウッドのために、新たな病院が設立される予定であったが、セルウッドの妻が体調を崩したため、1890年11月に夫妻でアメリカに帰国し、1891年3月をもってミッションを辞職した[1]

セルウッド帰国後の東京における聖公会の医療活動

日本で教育活動に従事したローも1890年(明治23年)12月に帰国してミッションを退任しており、セルウッドの帰国によって、米国聖公会の外国人宣教医師による東京での医療宣教活動は、大きな成果を残すことなく一旦中止となった[1]

しかし、セルウッドが帰国した同月の1890年(明治23年)11月1日に、米国聖公会の主教であるチャニング・ウィリアムズが要請して、医師で聖公会信徒の長田重雄が京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英語名:Tokyo Dispensary)を開設して院長となり、米国聖公会としての東京での医療宣教活動は継続された[5][3]。また、浅草黒船町にも愛恵病院の拠点があったと思われる[3]

その後、愛恵病院は1896年(明治29年)6月13日に、立教大学校校舎(現・立教大学)があった築地居留地37番に移転し、「築地病院」(英語名:St. Luke's Hospital)と改称した[5][3]1899年(明治32年)秋に一旦閉鎖して、長田院長も辞任した後、1900年(明治33年)2月2日にウィリアムズの後任であるジョン・マキムの米国聖公会本部への要請が実り、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが夫妻で来日すると、1901年(明治34年)2月12日に築地病院を前身とする「聖路加病院」(現在の聖路加国際病院)(英語名:St. Luke's Hospital)を同じ築地居留地37番に開設した[5][3]

帰国後のセルウッド、陸軍救援隊の結成

1917年6月に、セルウッドは最初のアメリカ陸軍救急隊をポートランドで結成した。その後、第363歩兵連隊に転属し、第一次世界大戦におけるフランスでの戦闘に参加したのち、1918年1月に少佐として除隊して予備役の大佐となった[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 藤本 大士「近代日本におけるアメリカ人医療宣教師の活動 : ミッション病院の事業とその協力者たち」、東京大学、2019年3月。 
  2. ^ a b c d e f Find a Grave 『Dr John James Sellwood』
  3. ^ a b c d e 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観-』第11章」『明治大学教養論集』第548巻、明治大学教養論集刊行会、2020年9月、111-127頁、ISSN 0389-6005 
  4. ^ 長尾 史郎,高畑 美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン(Nipon)滞在の9年間 -日本の生活と仕来りの概観』 -第5章 東京の生活-」『明治大学教養論集』第530巻、明治大学教養論集刊行会、2017年12月、201-220頁、ISSN 0389-6005 
  5. ^ a b c 『聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して―』 川崎晴朗,筑波学院大学紀要第13集,241頁-254頁,2018年 (PDF)