箇所銀
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箇所銀(かしょぎん/かしょがね)は、江戸時代に、長崎の町人に毎年配布された給付金。本項では同一の趣旨で配布された竃銀(かまどぎん/かまどがね)についても併せて解説する。
この制度は、正徳5年(1715年)の海舶互市新例で定められたもので、海外貿易の利益の一部を、家持町人には箇所銀、借家人に竃銀という名目で年2回、7月と12月に長崎会所を通して配布した[1][2][3][4][5]。
箇所銀の箇所とは「間口四間入拾五間」の約60坪を一箇所といい、一箇所あたり何匁と厳密に計算された[6]。銀は秤量貨幣なため、割渡(貨幣を削って分配すること)で渡された[6]。箇所銀は大抵1ヶ年額銀130目(約40万円)くらいであるとされているが、貫銀(ぬきぎん)として町内の経費を差し引かれるため手取り額は少なかった[6][7]。
竃銀は、箇所銀のように敷地に対する配分銀ではなく、住宅を基準として借家人または家屋のみの所有者に対しての配分であり、一戸につき銀30匁(約9万円)くらいとされていた[2][6][8]。
借家人であっても箇所を購入するか相続すれば、箇所持ちになることができた[6]。また、他の箇所を購入すれば自分の箇所を増やすこともできたため、1人で多くの箇所をもつ者も現れた[6]。
箇所銀・竃銀は長崎町人たちの貿易利銀配分の不公平感を是正し[6]、また貿易を支障なく行うためにいつでも活用できる労働力を確保するため[9]に作られた制度で、慶応3年(1867年)7月に廃止される[10]まで、長崎町人の最高位である町年寄から下は借家人にまで平等に配分された[1][5]。
脚注
[編集]- ^ a b 「箇所銀」『国史大辞典』第3巻 吉川弘文館、288頁。
- ^ a b 「竃銀」『国史大辞典』第3巻 吉川弘文館、560頁。
- ^ 赤瀬浩著 『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ、104頁。
- ^ 原田博二著 『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、19頁。
- ^ a b 「箇所銀・竃銀」原田博二著 『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、120-121頁。
- ^ a b c d e f g 「利益の配分「箇所銀・竃銀」」赤瀬浩著 『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ、145-147頁。
- ^ 文化5年(1808年)の桶屋町の記録では、一箇所あたり銀67匁が支給されたが、実際の配分は一箇所につき11匁ほどだった。
- ^ 文政6年(1823年)以降、箇所銀は一箇所につき年に134匁(総額524貫500目)、竃銀は一竃につき年に35匁(総額345貫)であった。
- ^ 赤瀬浩著 『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ、145頁。
- ^ 原田博二著 『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社、126頁。
参考文献
[編集]- 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2005年 ISBN 4-06-258336-4
- 原田博二『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』 河出書房新社、1999年 ISBN 4-309-72612-7
- 『国史大辞典』第3巻、吉川弘文館、1983年 ISBN 978-4-642-00503-6