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第二十三航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第二十三航空隊[1]だい23こうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。水上偵察機からなる偵察部隊として編制され、日華事変序盤に華中方面で偵察・臨検・爆撃に従事した。

沿革

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昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中の武力衝突が始まるやいなや、海軍は事件からわずか4日後の11日に6個航空隊の大陸派遣を決定した。6個航空隊は早速活動を開始したが、戦闘は収束せずに拡大するばかりで、航空隊の被害も続出した。また、綿密な偵察の必要性も確認された。このため先に派遣されていた2個偵察機隊に加え、新たに偵察機隊を追加派遣することとなり、事変勃発から1ヵ月後に追加編制されたのが二十三空である。二十三空は4個航空隊から選抜された16機編成で、先に派遣された第二十一航空隊第二十二航空隊の合計12機をしのぐ大所帯となった。

  • 昭和12年8月13日 佐世保飛行場で臨時編制。第三艦隊附属に編入(水上偵察機16)。

         館山海軍航空隊大湊海軍航空隊舞鶴海軍航空隊鎮海海軍航空隊から各4機を選抜。

  • 昭和12年8月19日 全機佐世保を出撃、馬鞍山諸島泗礁山泊地に進出。

         補給母艦として潜水母艦大鯨を指定。物資・要員を載せ佐世保出航。

         以後、泗礁山泊地を拠点に上海の偵察・哨戒・船舶管制に従事。

         2日連続で飛行場・軍需工場の爆撃に従事。

  • 昭和12年9月22日 香久丸、泗礁山泊地に到着。館山空・大湊空水偵隊を収容し、香久丸飛行隊を編制。
  • 昭和12年10月2日 水上機母艦能登呂、泗礁山泊地に到着。二十三空に残る舞鶴空・鎮海空水偵隊を収容。

         二十三空を解散し、能登呂飛行隊を編制(岡田次作司令は能登呂艦長に就任し、飛行隊の統率を継続)。

能登呂と香久丸はさっそく第四航空戦隊に組みこまれ、華南方面の海上臨検・内陸偵察に従事した。以後、陸上基地が確保される昭和13年4月まで、四航戦をはじめ全水上機母艦飛行隊は華南に集結し、すべての航空作戦に従事した。香久丸飛行隊は13年1月頃を中心に、南寧や柳州を爆撃している。香久丸は13年夏の漢口攻略作戦を支援するために上海に移り、漢口占領を果たした直後の昭和13年12月15日に解傭され、飛行隊も解散した。

一方、正規水上機母艦の能登呂は華南に残留し、広九線の軌道爆撃や列車襲撃、金門島攻略作戦の支援などの任務に従事した。能登呂は太平洋戦争開戦直前に艦載機を降ろし、戦時はもっぱら運送艦として行動した。

主力機種

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歴代司令

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  • 岡田次作 大佐:昭和12年8月13日 - 昭和12年10月2日能登呂飛行隊に編入

脚注

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  1. ^ 内令、達号、辞令公報ほか「海軍省が発行した公文書」では、海軍航空隊番号附与標準制定(1942年11月1日)前の2桁番号名航空隊は航空隊名に「海軍」の文字が入らず漢数字の「十」を使用する。海軍航空隊番号附与標準制定後の2桁番号名航空隊は他の3桁番号名航空隊と同様、航空隊名に「海軍」の文字が入り漢数字の「百」や「十」は使用しない。

関連項目

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参考文献

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  • 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
  • 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
  • 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
  • 『日本海軍航空史4』(時事通信社 1969年)
  • 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
  • 『戦史叢書 中国方面海軍作戦1』(朝雲新聞社 1974年)
  • 『戦史叢書 中国方面海軍作戦2』(朝雲新聞社 1975年)