突撃隊最高指導部
突撃隊最高指導部(独:Oberste SA-Führung, OSAF)は、国家社会主義ドイツ労働者党の準軍事組織、突撃隊(SA)の最高機関である。
SA最高指導部の役割は、SAの組織統括を担っていた。また、OSAFの名称は突撃隊の最高指導者の称号としても機能していた。
概要
[編集]突撃隊最高指導部は、1926年11月1日に発足し、突撃隊(SA)の最高司令部として設立された。1930年8月末まで、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンがSA最高指導者に任命され、党の議長としてアドルフ・ヒトラーの補佐も兼任していた。ザロモンの幕僚には、ゲオルク・ハラーマンが着任し、後にヴィルヘルム・シュミットが後任となった。
1930年8月、突撃隊員の選挙出馬を巡る問題でヒトラーと揉めたザロモンが辞任した後、突撃隊の抜本的な組織再編が行われ、ヒトラー自らSA最高指導者に就任し突撃隊の指揮を執った。しかし、1930年の終わり頃からSA最高指導部の役割は、新設の突撃隊幕僚部(SA-Stabschef)へ移行しつつあった。
1930年9月から1931年1月30日までオットー・ヴェーゲナーが暫定的に幕僚長となった後、1931年1月から1934年6月30日までエルンスト・レームが幕僚長に就任した。その後、ヴィクトール・ルッツェが1934年6月30日から1943年5月まで就任し、最後にはヴィルヘルム・シェップマンが1943年から1945年まで務め、マックス・ユットナーが1943年5月から8月初旬まで代理を務めた。
当時、SA幕僚長とSA最高指導者は同一の役職であると誤解されており、そのため、SA上級集団指導者のエドムント・ハイネスは、1934年6月の時点で、レームではなくヒトラーがSA最高指導者であることをエヴァルト・フォン・クライスト将軍に説明しなければならなかった。
SA最高指導部の本部はミュンヘンにあり、バラー通り(Barerstrasse)7-11番に立地していた。SA幕僚部は、1931年頃から褐色館に事務所を構えていた。
1934年7月、SA最高指導部はミュンヘンからベルリンへ移された。
(SA歴代指導者一覧)
- 1925年2月~5月1日 ― エルンスト・レーム(OSAF設立以前のSA最高指導者)
- 1926年1月~11月 ― アルベルト・ドレスラー(代行)
- 1926年11月1日~1930年8月 ― フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
- 1930年9月~1945年4月 ― アドルフ・ヒトラー
組織
[編集]1931年12月時点でのOSAFの組織は以下の構造となっていた。
幕僚長:エルンスト・レーム
主任補佐官:ロルフ・ライナー
- 第Ⅰ部:フランツ・フォン・ヘラウフ(第Ia・M課の監督)
- 第Ia課:オットー・クヴィリン・ランツェレ
- 第Ib課:ハンス・ツェーバーライン
- 第K課:アドルフ・ヒューンライン
- 第FL課:ヴィルヘルム・ツィーグラー
- 第L課:ヨーゼフ・ザイデル(第Pr課の監督)
- 第M課:クルト・キューメ
(担当:凱旋活動の管理、兵力統計、訓練、地図、切手、通信、自動車、航空、防空、服務規定、楽隊、スポーツ、徽章)
附属:全国楽隊部監督 - 第Ic課(諜報):カール・レオン・デュ・ムーラン=エッカート(幕僚長直属)、後任者:ヘルベルト・リスター
- 第IIa課(人事):ヴィルヘルム・シュミット(幕僚長直属)
- 第IVa課(出納、予算):カール・シュライヤー(幕僚長直属)
- 第Pr課(OSAF報道局):ヨーゼフ・サイデル(第L課の監督、幕僚長直属)
- 第Qu部:ヨハン・バプテスト・フックス(第III、IVb、F課監督)
- 第III課:ルートヴィヒ・フィッシャー
- 第IVb課:ラング
- 第F課:ヴィルヘルム・ブリュックナー
- (担当部門:広報、政治指導、法律問題、SA宿舎、自衛、街頭闘争負傷者・収監者救対部、機械管理、輸送、条例指導)
- 第ST部(幕僚部宿舎):ロルフ・ライナー
- 幕僚部直属
- 親衛隊全国指導者:ハインリヒ・ヒムラー
- 全国青年指導者:バルドゥール・フォン・シーラッハ
- 全国指導者学校校長:クルト・キューメ
- 全国自動車軍団指導者(SAおよびSS自動車化部隊の検査兼任):アドルフ・ヒューンライン
- 監察官:クルト・フォン・ウルリヒ
- 全国医師長:パウル・ホッハイゼン
- 幕僚部所属
- SAホッホラント管区集団指導者:フリッツ・フォン・クラウサー(指導部附属)
- 大管区突撃指導部『ミュンヘン=オーバーバイエルン』:フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン
- ヒトラーユーゲント指導部:テオドール・アドリアン・フォン・レンテルン
- 国家社会主義学生同盟指導部: 〃
- SS上級地区『南』指導部:ヨーゼフ・ディートリヒ
- 副官部
- 催事監督部
- 報道部
- その他OSAF附属部署
- 教育本部
- 司法および法務局
- 官房局
- 人事局
- SA政治局
- 出版局:ヴィルヘルム・ヴァイス
- 経理局
- 『アドルフ・ヒトラー寄金』課
突撃隊最高指導者代行
[編集]1933年まで、いくつかの地方SA最高指導者は突撃隊最高指導者代行(OSAF-Stellvertreter)の称号を保持していた。
- OSAF-中央(本部:ドレスデン)
- マンフレート・フォン・キリンガー ― 1928~1933年
- OSAF-北(本部:ハノーファー)
- カール・ディンクラーゲ ― 1930年
- ヴィクトール・ルッツェ ― 1930~1933年
- OSAF-東(本部:ベルリン)
- ヴァルター・シュテンネス ― 1927~1931年
- OSAF-南(本部:ミュンヘン)
- アウグスト・シュナイトフーバー ― 1929~1932年
- OSAF-西(本部:カッセル/デュッセルドルフ)
- クルト・フォン・ウルリヒ
- ヴェルナー・フォン・フィフテ
- アウグスト・シュナイトフーバー ― 1932~1933年
SA最高指導者会議沿革
[編集]- 1924年5月17日:ザルツブルクでのSA指導者会議(褐色シャツ型制服の導入が本会議において可決)
- 1930年11月30日:ミュンヘンでのSA指導者会議(エルンスト・レームのSA幕僚長就任の指名が本会議において可決)
- 1932年6月27日:ベルヒテスガーデンでのSA指導者会議
- 1932年12月:アンスバッハでのSA指導者会議
- 1933年1月23日:ベルリンでのSA指導者会議[1]
- 1933年7月1日~3日:バート・ライヘンハルでのSA指導者会議(鉄兜団との共同会議)
- 1934年1月21~22日:テューリンゲン、フリードリヒローダでのSA指導者会議
- 1934年5月2日:ミュンヘンでのSA指導者会議
- 1934年6月30日:バート・ヴィースゼーでのSA指導者会議は実際には開催されておらず、いわゆる、レーム事件におけるレーム一派の謀議として公式に発表された。
脚注
[編集]- ^ "S.A. und S.S.-Führertagung in Berlin", in: Völkischer Beobachter vom 24. Januar 1933 (Digitalisat beim Staatsarchiv München).
参考文献
[編集]- Bruce Campbell: The SA Generals and the Rise of Nazism. University Press of Kentucky, Lexington KY 2004, ISBN 0-8131-9098-3.
- Peter Longerich: Die braunen Bataillone. Geschichte der SA. C. H. Beck, München 1989, ISBN 3-406-33624-8.
- Ernst Klee: Das Personenlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. Verlagsgruppe Weltbild GmbH, genehmigte Lizenzausgabe, Augsburg, 2005, ISBN 3-8289-0569-2
- Wolfgang Benz, Hermann Graml, Hermann Weiß: Enzyklopädie des Nationalsozialismus. Deutscher Taschenbuch Verlag GmbH & Co KG, München, 1997, ISBN 3-423-33007-4