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穴水要七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
穴水要七
あなみず ようしち
壮年時代の穴水要七
生年月日 1875年1月19日
出生地 日本の旗 日本 山梨県巨摩郡
(現山梨県韮崎市)
没年月日 (1929-01-03) 1929年1月3日(53歳没)
前職 富士製紙専務取締役
所属政党 立憲政友会

選挙区 (山梨県郡部選挙区→)
(山梨県第3選挙区→)
(山梨県第5選挙区→)
山梨県全県選挙区
当選回数 4回
在任期間 1918年12月 - 1924年1月31日
1927年3月 - 1929年1月3日
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穴水 要七(あなみず ようしち、1875年明治8年)1月19日[1][2] - 1929年昭和4年)1月3日[1][3])は、明治後期から昭和初期の実業家政治家衆議院議員。旧姓・小野。

経歴

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山梨県[3]巨摩郡、のちの北巨摩郡旭村[1][4](現韮崎市)で、小野八左衛門の二男として生まれる[1][2]甲府市金手町の穴水嘉三郎の店に奉公し、1898年(明治31年)7月、嘉三郎の養子となる[1][2][4][5]米相場で失敗して破産した[5]

1901年(明治34年)横浜に移り米穀肥料食塩商を営む[1]。1908年(明治41年)上京して富士製紙に入社し、実績を積み1918年(大正7年)専務取締役に就任した[1][4][5]。製紙業に重要な電力に関心を向け、1921年(大正10年)北海道電燈(のち大日本電力)を設立して社長となる[5]。その他、中央ゴム工業社長、小武川電力社長、登帆炭鑛社長、士別軌道社長なども務めた[3][6]

牛田唯一の死去に伴い1918年(大正7年)12月に実施された第13回衆議院議員総選挙山梨県郡部補欠選挙で初当選[1][4][7]。以後、第16回総選挙まで再選され、衆議院議員に4期在任した[3]。この間、立憲政友会総務などを務めたが[1]、議員在任中の1929年1月に死去した[8]。墓所は鶴見總持寺

国政選挙歴

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』31頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第4版』あ46頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』23頁。
  4. ^ a b c d 『甲州古今人物辞書』55頁。
  5. ^ a b c d 『北海道歴史人物事典』12頁。
  6. ^ 『人事興信録 第8版』ア103頁。
  7. ^ a b 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』253頁。
  8. ^ 『官報』第606号、昭和4年1月9日。
  9. ^ 『官報』第1918号、大正7年12月24日。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』15頁。
  11. ^ 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』261頁。
  12. ^ 『官報』第88号、昭和2年4月18日。
  13. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』78頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 川手秀一編『甲州古今人物辞書』山梨協会本部、1938年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。
  • 北海道新聞社編『北海道歴史人物事典』北海道新聞社、1993年。