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稲葉岩吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲葉 岩吉
人物情報
生誕 (1876-12-04) 1876年12月4日
日本の旗 日本新潟県
死没 1940年5月23日(1940-05-23)(63歳没)
満洲国新京特別市
出身校 高等商業学校
学問
研究分野 東洋史(朝鮮史中国史)
研究機関 建国大学
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稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 1940年5月23日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史中国史。旧姓は小林。号は君山。

経歴

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1876年明治9年)、現在の新潟県村上市に生まれる。1900年高等商業学校附属外国語学校中国語部を卒業後、中国の北京に留学する。1904年に勃発した日露戦争陸軍の通訳として従軍し、その後大阪商船に一時期勤務する。

1909年満鉄調査部に入り、「満州朝鮮歴史地理調査」に携わる。1915年陸軍大学校の教官に着任し、主に中国情勢について講義する。1922年朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員兼幹事に任じられ、1925年からは修史官として歴史書『朝鮮史』の編集にあたる。1932年、京都帝国大学から朝鮮史研究により文学博士の学位を取得。1938年、開校したばかりの満州国建国大学に教授として赴任する。1940年、満州国の首都新京にて死去した。

評価

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礪波護によると、1950年代半ばにおける日本の東洋史学の発達史を総括した松本善海東京大学)は、1920年前後の時期に、ページのみいたずらに多い教科書的参考書的概説書の氾濫の外にあって、一応の史観をもって書かれた概説書として、稲葉の著書『支那政治史綱領』をあげている[1]。そして、時代区分法を樹立したこれらの新しい見解が学界においては有力となっても、日本における東洋史学が容易に概説書のスタイルを変えなかったのは、それが中国史に限られていて、同じ形で東洋全般を捉えることができなかったためであり、そこまでへの展開には、宮崎市定の著書『東洋的近世』の出現を待つ必要があった、と述べている[1]

主張

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朝鮮民族

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稲葉は、朝鮮民族は独自の民族ではなく、大陸からの移住者、しかも大陸での敗残者が朝鮮に逃げこんだものと主張し、朝鮮人のなかには満州人の血が多分に流れこんでいると考えていた[2][3][4]

当時、朝鮮人のなかで檀君神話がとなえられたのに対して、稲葉岩吉は、檀君神話の架空性を批判する一方、「満鮮不可分論」を主張し、朝鮮歴代の王家は、満州あるいは大陸からの敗残者が朝鮮に逃げこんだものであり、朝鮮と満州とは、政治的・経済的に一体「不可分」であり、朝鮮だけの、独自の存在はありえないことを主張した[5] — 旗田巍、朝鮮史研究の課題

百済

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夫余は、もと玄菟郡に所属していたが、公孫度が、海東に勢力をふるうようになり、その支配下に置かれるようになった。公孫度は、夫余王の尉仇台に娘を嫁わせて、鮮卑高句麗などを牽制させようとした[6]正始年間、毌丘倹は、高句麗を討って、玄菟大守を派遣して、夫余に至った。以後、夫余は中国王朝の支配下に入った[6]。この夫余は、のちの百済の建国に関わりがあるとされる。百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない[6]。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という[6]。北夫余から逃れてきて、その土地の夫余の王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流、温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した[6]負児嶽弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている[6]。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している[7][6]

万里の長城

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史記索隠』『通典』など、様々な中国史書に「楽浪郡遂城県碣石山から秦の長城が始まる」と記録されており、これらの史書記録を基に、1910年に稲葉岩吉は、万里の長城平壌まで達していたと主張した[8]。稲葉岩吉の主張は、1982年発刊『中国歴史指導集』、東北工程2012年公開の米議会調査局報告書にも反映されている[8]

著作

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脚注

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  1. ^ a b 宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』平凡社東洋文庫〉、1989年9月1日、323-324頁。ISBN 4582805086 
  2. ^ 酒寄雅志「渤海史研究と近代日本 (特集 日本・中国・朝鮮関係史の研究)」『駿台史學』第108巻、明治大学史学地理学会、1999年12月、(9)頁、ISSN 0562-5955 
  3. ^ 旗田巍『「満鮮史」の虚像―日本の東洋史家の朝鮮観―』鈴木俊教授還暦記念会〈鈴木俊教授還暦記念 東洋史論叢〉、1964年10月、485頁。 
  4. ^ 桜沢亜伊「「満鮮史観」の再検討 : 「満鮮歴史地理調査部」と稲葉岩吉を中心として」『現代社会文化研究』第39巻、新潟大学大学院現代社会文化研究科、2007年、30頁、ISSN 13458485 
  5. ^ 旗田巍 著、朝鮮史研究会 編『朝鮮史研究の課題』太平出版社〈朝鮮史入門〉、1966年11月、22頁。 
  6. ^ a b c d e f g 豊田有恒 (2001年3月30日). “魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷”. 北東アジア研究 1 (島根県立大学): p. -100-101. http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/ 
  7. ^ 稲葉岩吉矢野仁一『朝鮮史・満洲史』平凡社、1941年。 
  8. ^ a b “「史料作成時期の読み違い」 ハンバッ大学教授が「万里の長城は平壌まで」説を否定”. 東亜日報. (2015年12月14日). オリジナルの2022年10月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221027105756/https://www.donga.com/jp/article/all/20151214/430197/1