稲村隆一
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稲村 隆一 いなむら りゅういち | |
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生年月日 | 1898年3月7日 |
出生地 | 北海道虻田郡喜茂別町 |
没年月日 | 1990年11月20日(92歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
所属政党 |
(日本共産党→) (労働農民党→) (社会大衆党→) (東方会→) (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
親族 |
弟 稲村順三(衆議院議員) 甥 稲村稔夫(参議院議員) |
選挙区 | 旧新潟3区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1955年2月28日 - 1958年4月25日 1960年11月21日 - 1969年12月2日 |
稲村 隆一(稻村隆一[1]、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。
来歴・人物
[編集]1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。
早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。
1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。
1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。
1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
1955年、弟の稲村順三の死を受けて第27回衆議院議員総選挙に旧新潟3区から補充立候補し、弔い選挙で当選。
1958年の第28回衆議院議員総選挙で落選するが、1960年の第29回衆議院議員総選挙から3連続で当選。1969年まで日本社会党所属の衆議院議員を務めた(通算4期)。
社会党左派として陣を張り、党中央執行委員や北海道開発特別委員会委員長なども務めた。その間も、中越共同印刷社長、日ソ親善協会理事長などを歴任し、1976年印刷センター社長に就任した。
1970年春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章するも、1978年に笹川良一(日本船舶振興会会長)の勲一等瑞宝章受章に抗議するため返上、笹川については個人的に知らないとしつつ、ギャンブルは社会悪の根源であり、その組織の長を叙勲することについての批判を行った[2]。
1990年11月20日死去、92歳。
エピソード
[編集]主要著書
[編集]など、特に農村問題に関する書籍が多数ある
参考文献
[編集]- 日外アソシエーツ編『政治家人名事典』(紀伊國屋書店、1990年)
- 北海道21世紀タイムス編『北海学園120年の群像』(北海道21世紀タイムス、2005年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』号外第61号2頁 昭和45年4月30日号
- ^ 「笹川氏勲一等」に抗議 勲二等を返上『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月14日朝刊、13版、23面
- ^ “第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。