コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

稲村隆一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲村 隆一
いなむら りゅういち
生年月日 1898年3月7日
出生地 日本の旗 北海道虻田郡喜茂別町
没年月日 (1990-11-20) 1990年11月20日(92歳没)
出身校 早稲田大学政治経済学部卒業
所属政党日本共産党→)
労働農民党→)
社会大衆党→)
東方会→)
日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党
親族稲村順三衆議院議員
稲村稔夫参議院議員

選挙区 旧新潟3区
当選回数 4回
在任期間 1955年2月28日 - 1958年4月25日
1960年11月21日 - 1969年12月2日
テンプレートを表示

稲村 隆一(稻村隆一[1]、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本農民運動家政治家衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。

来歴・人物

[編集]

北海道虻田郡喜茂別町出身。

1918年北海中学校旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。

早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年労働農民党に入党。

1928年三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。

1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。

1940年東方会石原莞爾東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。

1955年、弟の稲村順三の死を受けて第27回衆議院議員総選挙旧新潟3区から補充立候補し、弔い選挙で当選。

1958年第28回衆議院議員総選挙で落選するが、1960年第29回衆議院議員総選挙から3連続で当選。1969年まで日本社会党所属の衆議院議員を務めた(通算4期)。

社会党左派として陣を張り、党中央執行委員や北海道開発特別委員会委員長なども務めた。その間も、中越共同印刷社長、日ソ親善協会理事長などを歴任し、1976年印刷センター社長に就任した。

1970年春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章するも、1978年笹川良一日本船舶振興会会長)の勲一等瑞宝章受章に抗議するため返上、笹川については個人的に知らないとしつつ、ギャンブルは社会悪の根源であり、その組織の長を叙勲することについての批判を行った[2]

1990年11月20日死去、92歳。

エピソード

[編集]

主要著書

[編集]
  • 『農民運動の経済的並に政治的基礎』(二松堂書店1927年
  • 『日本に於ける農業恐慌』(稲村順三と共著、白揚社1931年
  • 『日本農村社会史』(日本農村社会史刊行会、1969年

など、特に農村問題に関する書籍が多数ある

参考文献

[編集]
  • 日外アソシエーツ編『政治家人名事典』(紀伊國屋書店、1990年)
  • 北海道21世紀タイムス編『北海学園120年の群像』(北海道21世紀タイムス、2005年)

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』号外第61号2頁 昭和45年4月30日号
  2. ^ 「笹川氏勲一等」に抗議 勲二等を返上『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月14日朝刊、13版、23面
  3. ^ 第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。

関連項目

[編集]