コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

稲村神社 (常陸太田市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
稲村神社

拝殿
所在地 茨城県常陸太田市天神林町3228
位置 北緯36度31分39.4秒 東経140度30分03.8秒 / 北緯36.527611度 東経140.501056度 / 36.527611; 140.501056 (稲村神社 (常陸太田市))座標: 北緯36度31分39.4秒 東経140度30分03.8秒 / 北緯36.527611度 東経140.501056度 / 36.527611; 140.501056 (稲村神社 (常陸太田市))
主祭神 饒速日命
社格 式内社(小)論社
郷社
創建 (伝)第13代成務天皇年間
本殿の様式 神明造
例祭 5月1日
地図
稲村神社の位置(茨城県内)
稲村神社
稲村神社
テンプレートを表示
二の鳥居

稲村神社(いなむらじんじゃ、稻村神社)は、茨城県常陸太田市天神林町にある神社式内社論社で、旧社格郷社

祭神

[編集]

祭神は次の12柱。

歴史

[編集]

創建

[編集]
一伝に初代久自国造の船瀬足尼命墓。

稲村神社の鎮座地一帯は、律令制以前の久自国造の本拠地であったとする説が知られる。この国造について、『先代旧事本紀』「国造本紀[原 1]では、成務天皇の御世に伊香色雄命(物部連遠祖)三世孫の船瀬足尼命が初代久自国造に任命されたと見える。社伝では、この任命の際に船瀬足尼命が始祖の饒速日命を祀ったといい、その時に「天神」、または7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」と称したという[1]。また、日本武尊が東征の際にこの地に天神七代の霊を祀ったともいう[1]

稲村神社の南西には梵天山古墳群が残るが、その主墳の梵天山古墳は茨城県第2位の規模になり、これを船瀬足尼命の墓とする伝承がある[2]

概史

[編集]

国史では、嘉祥2年(849年[原 2]に「稲村神」が官社に預かり、水旱に霊験を表した旨の記事が見える[1]。その後、元慶2年(878年[原 3]に「稲村神」の神階が従五位下、仁和元年(885年[原 4]に従五位上まで昇叙された旨が記載されている。延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では常陸国久慈郡に「稲村神社」と記載され、式内社に列している。ただし、これらの「稲村神」には他の論社もある[注 1]

『新編常陸国誌』によると、元禄4年(1691年徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。そしてこれらを1社とするよう諭したので、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという[1]。また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した[1]。江戸時代には社領として6石5斗余、除地として9石9斗3升を有した[1]

明治に入って式内社の稲村神社に比定され、「七代天神宮」から社名を改めた[3]。また近代社格制度では郷社に列した。

神階

[編集]

境内

[編集]

現地情報

[編集]

所在地

周辺

脚注

[編集]

注釈

  1. ^ 茨城県久慈郡大子町の近津神社、茨城県桜川市の礒部稲村神社が他の論社に挙げられる。ただし前者は陸奥国の位置と見られ、後者は常陸国ではあるが久慈郡の位置ではないと見られる。

原典

  1. ^ 『先代旧事本紀』「国造本紀」久自国造条。
  2. ^ a b 『続日本後紀』嘉祥2年(849年)4月庚寅(7日)条。
  3. ^ a b 『日本三代実録』元慶2年(878年)8月23日条。
  4. ^ a b 『日本三代実録』仁和元年(885年)5月22日条。

出典

  1. ^ a b c d e f 稲村神社(平凡社) & 1982年.
  2. ^ 「梵天山古墳群」『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』 平凡社、1982年。
  3. ^ 稲村神社(延喜式神社の調査<個人サイト>)。

参考文献

[編集]
  • 境内説明板
  • 「稲村神社」『日本歴史地名大系 8 茨城県の地名』平凡社、1982年。ISBN 4582490085 

関連項目

[編集]