韓攻略
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韓攻略戦 | |
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戦争:秦の統一戦争 | |
年月日:紀元前231年~紀元前230年 | |
場所:新鄭 | |
結果:韓の滅亡 | |
交戦勢力 | |
秦 | 韓 |
指導者・指揮官 | |
内史騰 | 韓王安 |
戦力 | |
10万人 | 8万人 |
損害 | |
数千 | 不明 |
韓攻略戦(かんこうりゃくせん)は、紀元前230年に秦が韓を滅ぼした戦い。
背景
[編集]秦は趙との戦争(肥下の戦い、番吾の戦い)で多大な損害を出し、進攻を阻まれたため、戦略の方針を変更し主攻を韓に定めた。
攻略戦
[編集]秦王政16年(紀元前231年)、9月、秦は兵を発し、韓の南陽の地を受け、騰を仮の南陽守とした[1]。
秦王政17年(紀元前230年)、騰率いる秦軍は南下し、新鄭を急襲した。韓王安は捕虜となり、韓は滅亡した。韓の国土は秦の潁川郡となった[2]。
影響
[編集]韓を滅ぼしたことにより、秦の統一への道が開かれた。韓は脆弱な国であったが、兵器は精良であり、「天下之強弓勁弩皆從韓出(優れた弓と弩は全て韓から生まれた)」と評されるほどであった[3]。よって韓を併合することで秦の軍事力はさらに強化された。韓の地理的な位置も重要で、魏、趙、楚の間に位置しており、これが秦の東進を防ぐ前線となっていた。韓が占める伊闕、成皋などの地域は天険であり、攻めるに難しく、韓が存在する限り他の国々は安定していたため、韓を迅速に滅ぼすことで秦は統一の進展を大いに加速させた[4]。
脚注
[編集]- ^ 《史記·秦始皇本紀》「十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰。」
- ^ 《史記·秦始皇本紀》「十七年,内史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。」
- ^ 《史記·蘇秦列傳第九》「天下之彊弓勁弩皆從韓出。谿子、少府時力、距來者,皆射六百步之外。」
- ^ 秦灭韩之战 - 中国军网