禰寝重長
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個人蔵 | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 天正8年3月16日(1580年3月31日) |
別名 | 重武、通称:七郎 |
戒名 | 月窓成円大居士 |
墓所 | 鹿児島県南大隅町の宝屋寺 |
官位 | 右近大夫 |
主君 | 肝付兼続→島津義久 |
氏族 | 禰寝氏 |
父母 | 父:禰寝清年、母:島津忠興娘 |
妻 | 正室:肝付兼続娘 |
子 | 重張、本田忠親室 |
特記 事項 | 鬼丸神社祭神 |
禰寝 重長(ねじめ しげたけ、1536年 - 1580年)は[注釈 1]、大隅国の国人である禰寝氏の第16代当主で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。根占七ヶ郷(根占院。現在の肝属郡錦江町大根占地域及び肝属郡南大隅町根占地域)を領有していた。
生涯
[編集]1536年 (天文5年)、父禰寝清年、母島津忠興娘とのあいだに生まれる。
妻は肝付兼続の娘であり、1561年(永禄4年)には兼続に従い大隅国内に出陣し、その後も肝付氏に従って島津氏と戦った。
兼続の死で肝付氏の形勢が不利になると、1573年(元亀4年)には島津義久と単独で和睦し、そのため肝付兼亮と伊地知重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。
1580年(天正8年)に死去。嫡子・重張が17代当主となり、島津氏の重臣として引き続き仕えた。重張は天正の役ののち豊臣秀吉から吉利村に移封されたが、当地に父重長の霊を祀った鬼丸神社を建立した。
政策
[編集]重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。
温州みかんの栽培を日本で最初に行った人物といわれている。
また、蝋燭材料の木蝋(櫨蝋)の原料であるハゼノキを中国から根占に取り寄せ、日本で初めて栽培させたとされている[注釈 2]。ハゼノキ栽培と櫨蝋生産はのちに他の地域にも広がり、重要な輸出品目となった。
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ 桜島町郷土誌編さん委員会 1988, p. 153.
- ^ 鹿児島県 1967.