福島正勝
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福島 正勝(ふくしま まさかつ、寛文5年6月15日(1665年7月27日)[1] - 元禄9年4月9日(1696年5月9日))は、江戸時代の旗本。福島左兵衛正長(福島忠勝の子)の長男。福島正則の曾孫にあたる。弟に山名隆豊。妻は松前志摩守矩広の娘[2]。子に正視。 官位は従五位下伊豆守。
生涯
[編集]福島氏は、福島正則の死後、正則の次男正利(正勝の大叔父)が旗本となって存続していた。しかしその正利が37歳で嗣子無く没し、福島氏は一旦断絶する。正勝は京に住んでいたが、天和元年(1681年)3月21日に召し出され、同年4月15日、将軍徳川綱吉に拝謁。天和2年(1683年)12月23日には上総国長柄郡・夷隅郡の内に2,000石を与えられ寄合に列し、元禄2年(1689年)10月15日小姓組番頭として仕えた。同年12月27日には伊豆守に叙任されたが、幕府に仕えてわずか7年で没した。
享年33、法名は常空。墓所は京都市妙心寺塔頭・海福院(福島正則創建)。以後、福島氏は2,000石の旗本として正視、正森(正視の婿養子)、正韶、正聖と続いた。
祖父の福島忠勝は、初名が同じ正勝だが、徳川秀忠の諱字を付与され、忠勝とされたものの墓石には本来の名である正勝と記している。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第1439」