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礼服御冠残欠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
御冠残欠。写真左上は日形の飾り

礼服御冠残欠(らいふくおんかんむりざんけつ、旧字体禮服御冠殘闕)は、聖武天皇冕冠光明皇后礼冠を中心とする残欠である。鎌倉時代に冠を出蔵した折に事故により破損したため、残欠として伝わる。残欠には、実際は孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の冠や諸臣の礼冠の残欠も含まれている可能性が指摘されている。正倉院宝物。

名称は礼服御冠残欠だが、礼服は伝わっていない。それゆえ、近年では単に「御冠残欠」とも呼ばれる[1]

歴史

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礼服御冠残欠を整理した函の中には、太上天皇(聖武天皇)と皇太后(光明皇后)の礼服(冠を含む)を一具ずつ収めたことを表側に記した木牌が伝わっており、その裏側には「天平勝宝4年4月9日」の日付が記されている[1]天平勝宝4年(752年)4月9日は東大寺大仏の開眼会の日であり、したがって両具がそのときに使用されたものであることがわかる。

冠は原型はとどめないが、日形、鳳凰、瑞雲、花、唐草文様の金属製飾りの残欠、また真珠、珊瑚、瑠璃玉を糸で通した旒(りゅう)が伝わる。

延暦12年(793年)の『曝涼使解(ばくりょうしげ)』[2]弘仁2年(811年)の『勘物使解(かんもつしげ)』[3]によると、聖武天皇の冕冠は「皂羅に金銀宝珠を餝(かざ)る、黒紫の組纓(そえい)二条を著(つ)く、赤漆八角小櫃一合に納む」とある。

聖武天皇(右)と光明皇后(左)の冠を架けたとみられる冠架、正倉院宝物。

皂羅(くりのうすはた)は黒色の羅のことで、髻(もとどり)を収める巾子(こじ)に相当する部分と思われる。その周りを金銀宝珠による装飾で囲み、さらに黒紫色の組紐が2つ付き、それを赤漆八角形の小櫃(こびつ)に収めた[4]。この小櫃は現存している。

残欠のうち、いずれが聖武天皇のそれか判別は難しいが、大小の真珠に所々に紺、緑、黄、赤の瑠璃玉を交えた旒は天皇の冕冠の旒とみられている[5]

また、日形の飾りも聖武天皇の冕冠のものと考えられている。金銅製で、8本の光芒からは真珠・瑠璃玉を貫いた瓔珞(ようらく)が垂れている。太陽の中には近世の冕冠にあるような三足烏は配されていない。

御冠残欠の鳳凰形と葛形裁文
御冠残欠の鳳凰形と葛形裁文

上記の使解には、光明皇后の冠について「純金鳳並びに金銀の葛形宝珠を以て荘(かざ)る、白線組緒二条を著く、赤漆六角小櫃一合に納む」と記されている。残欠のうち、金の鳳凰形は光明皇后の冠のものと考えられている。翼の付け根近くに一対の嵌玉の痕があり、本来は宝玉がはめ込まれていたと思われる。

仁治3年(1242年)、後嵯峨天皇の即位の礼を行うにあたって、礼服御覧が行われた。礼服御覧とは、天皇が即位の礼で着用する礼服をあらかじめ点検する儀式である。その際、冕冠が破損していることが判明した(平経高平戸記[6])。内蔵寮に保管していた冕冠が先年盗賊に遭い、金銀、宝玉の類はすべて盗まれ、わずかに羅の断片が残っているだけであった。この盗まれた冕冠は清和天皇の代に制作されたものと思われる。即位の儀に間に合うように新調するにしても、見本が必要ということで、正倉院に保管されていた聖武天皇の冕冠を出蔵することにした。

このとき、聖武天皇の玉冠2頭と女帝の玉冠の2頭、合計4頭、並びに諸臣の礼冠26頭もあわせて出蔵された。即位の儀が終わると、これらの礼冠は正倉院に返却されたが、返却の途上、天皇の礼冠4頭が著しく破損してしまった(『東大寺続要録』[7])。これが今日伝わる御冠残欠である。事故による破損ではなく、後嵯峨天皇の冕冠を急いで制作するために部品を流用したのではないかと疑う見解もある[8]

なお上記使解によれば、聖武天皇の冕冠は1頭のはずだが、後述するように孝謙天皇の礼冠1頭に旒が備わっていたので、それを男性天皇の冕冠と誤認したと思われる。また女帝の玉冠2頭は、光明皇后の礼冠と孝謙天皇の凡冠を指すと思われる。

『白石先生紳書』に、「奈良の正倉院に聖武天皇の冕冠があるが、盗人がこれを取り、玉を取り、金を取り、その余りは溝を打ち捨てた。これは所司板倉周防守(板倉重宗)の時の事である」との記述がある[9][注釈 1]。一方で、『東大寺三倉開封勘例』には、慶長17年(1612年)閏10月24日に盗難があったとの記述があり[10]、このときの所司代は板倉重宗の父板倉勝重伊賀守)である。したがって、仁治3年(1242年)の出蔵の折の破損はそれほど深刻ではなく、慶長17年(1612年)のときに現在のような状態に破損が進んだのではないかとする見方がある[10]

孝謙天皇の冠

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正倉院には、孝謙天皇のものとされる冠2頭も収められていた。上記の『曝涼使解』や『勘物使解』に、「礼冠の御冠二箇〈礼冠一箇、旒有り、雑玉を以て餝る、凡冠一箇、雑玉を以て餝る〉、赤漆小櫃一合に納む」とあるのは孝謙天皇の冕冠であったと考えられている[11][12]

ただし両使解には孝謙天皇の名は記されていない。斉衡3年(856年)の『礼服礼冠目録』に礼冠一具、凡冠一具は「右、(判読不能)天皇」のものとあり[13]、皇后や皇太后の礼冠でないことは確かだが、名前の部分が判読できない。

この礼冠2頭が孝謙天皇のものとされる根拠は、鎌倉時代に出蔵した折に発生した「玉冠破損事件」を記した『東大寺続要録』に天皇玉冠4頭のうち2頭は女帝のものであり、これは孝謙天皇のものであろうかと推測されているからである[14]

したがって、この2頭が孝謙天皇の冠であるなら、1頭には近世の女性天皇の宝冠にはない旒がそなわっていたことになる。「雑玉」とはいろいろな色の宝玉のことである。

「凡冠」は普段用いる冠という説と、冕冠の帽子部分のことで、旒のある冕板をその上に重ねて使用したのではないかという説がある[15]。その場合、2頭は実際には着脱式の冕冠1頭だったことになる。

源師房『土右記』の長元9年(1036年)7月4日条の「礼服御覧」の記事に、女性天皇(女帝)の礼冠の特徴が記されている[16]。礼服御覧とは天皇が即位の儀に着用する袞冕十二章を内蔵寮より取り出して自ら点検する儀式である。それによると、平巾子(高さが低いという意味か)はあるが、櫛形(くしがた)はなく、押鬘(おしかずら)はあり、その上に3つの花形の装飾があり、これは花枝形で飾られていた。

男性天皇の冕冠には櫛形と押鬘の両方が備わっているが、女性天皇の礼冠は押鬘だけが備わっており、おそらくその上から枝が伸び、その先端に花弁の装飾がほどこされていたのであろう。近世の宝冠にも同様の装飾がある。

そして、冠の前部には鳳形の飾りがあるが、左に寄って立てられており、右のほうの飾り(凰形?)は失われたのであろうかとも述べられている。

上記から想像すると、近世の宝冠に近い意匠だが、鳥形の飾りは本来は2つあった可能性がある。そして、旒の言及がないので、江戸時代の宝冠同様に旒はなかった可能性がある。

ここで問題なのは、『土右記』が書かれる以前の一番時代が近い女性天皇は孝謙天皇になるので、内蔵寮に保管されていた礼冠は孝謙天皇の冠である可能性が高いが、しかし、孝謙天皇の礼冠2頭は正倉院に収蔵されていて、出蔵の記録がないことである。また意匠も正倉院の礼冠のうち1頭は旒を備えていたが、内蔵寮の礼冠には旒の記述はない。

すると、内蔵寮の女性天皇用礼冠は孝謙天皇の第3の冠か、孝謙天皇以前の女性天皇の冠だったことになる。黒川真頼推古天皇から元正天皇に至るまで、女性天皇が代々着用してきた冠であろうという説を述べている[17]。また、内蔵寮に伝来していた冠は実際は皇后の冠だったのではないかと推測する説もある。

礼服

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大嘗祭(1990年)で御祭服を着る明仁上皇

続日本紀』に「天平四年正月乙巳朔、大極殿に御して朝を受く。天皇始めて冕服を服す」とあることから、天皇が冕冠と袞衣をはじめて着たのは天平4年(732年)とされる。

中世以降の袞衣は赤色で大袖と裳に十二章が配される。十二章とは『書経』益稷篇に記されている12の章(しるし)のことで、日、月、星辰、山、龍、華蟲、宗彝、藻、火、粉米、黼、黻を指す[18]。中国では、以来、天子(皇帝)が着用する袞服に配された。

聖武天皇の礼服は現存していないが、上記の両使解によると、帛袷袍(はくのあわせほう)、即ち白絹のとあり、十二章を配した袞衣ではなかった[19][20]

白は穢のない清浄さを意味し、今日でも天皇が大嘗祭新嘗祭で着用する御祭服は純白である。したがって、奈良時代の天皇の礼服は、のちの帛衣(はくぎぬ)や御祭服につながる無刺繍の白色の礼服だったと考えられている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 原文は、「奈良御倉に聖武の冕有盗取て玉を取金をとりて其餘は溝へうち捨たり所司板倉周防守時の事なり」。

出典

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  1. ^ a b 米田, 雄介「礼服御冠残欠について―礼服御覧との関連において―」『正倉院年報』第17巻、宮内庁正倉院事務所、1995年3月、44-72頁。 
  2. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 1940, 「正倉院御物出納文書(7)」.
  3. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 1940, 「正倉院御物出納文書(11)」.
  4. ^ 倉田 1954, p. 15.
  5. ^ 木村法光「御冠残欠ノ内 真珠類聚 北倉157」
  6. ^ 笹川 1935, p. 162.
  7. ^ 神宮司庁 1912, p. 1146.
  8. ^ 関根, 真隆『奈良朝服飾の研究』吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1974年。 
  9. ^ 新井, 白石『新井白石全集』 5巻、国書刊行会、1906年、749頁。doi:10.11501/990985https://dl.ndl.go.jp/pid/990985 
  10. ^ a b 武田 & 津田 2016, p. 298.
  11. ^ 帝室博物館 1929, p. 51.
  12. ^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1213-1215/3563).
  13. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 1940, 「正倉院御物出納文書(27)」.
  14. ^ 神宮司庁 1912, p. 1145.
  15. ^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1217-1218/3563).
  16. ^ 竹内 1967, p. 256.
  17. ^ 黒川 1911, p. 188.
  18. ^ ウィキソース出典 益稷」(中国語)『尚書』。ウィキソースより閲覧。 
  19. ^ 帝室博物館 1929, p. 65.
  20. ^ 近藤 2019, § 1.2(Kindle版、位置No.1246-1247/3563).

参考文献

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  • 黒川, 真頼『黒川真頼全集』 5巻、国書刊行会〈国書刊行会刊行書〉、1911年。doi:10.11501/991266https://dl.ndl.go.jp/pid/991266 
  • 神宮司庁 編『古事類苑 第29冊』古事類苑刊行会、1912年。doi:10.11501/1874249https://dl.ndl.go.jp/pid/1874249 
  • 帝室博物館 編『正倉院御物図録 第3輯』帝室博物館、1929年。doi:10.11501/8798670https://dl.ndl.go.jp/pid/8798670 
  • 笹川, 種郎 編『史料大成』 24巻、内外書籍、1935年。doi:10.11501/1236603https://dl.ndl.go.jp/pid/1236603/1/95 
  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 卷之二十五(補遺二)』東京帝国大学、1940年。doi:10.11501/1909266https://dl.ndl.go.jp/pid/1909266 
  • 倉田, 三郎等 編『造形教育大辞典』 1巻、不昧堂書店、1954年。 
  • 竹内, 理三 編『續史料大成 増補』 18巻、臨川書店、1967年8月。doi:10.11501/2529857ISBN 4-653-00464-1 
  • 武田, 佐知子、津田, 大輔『礼服―天皇即位儀礼や元旦の儀の花の装い―』大阪大学出版会、2016年8月20日。ISBN 978-4872595512 
  • 近藤, 好和『天皇の装束-即位式、日常生活、退位後』中央公論社、2019年3月16日。ISBN 978-4121025364 

関連項目

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