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研成義塾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
研成義塾跡

研成義塾(けんせいぎじゅく)は、かつて長野県南安曇郡穂高町(現在の安曇野市)にあった私塾(後に旧制中学校)である。無教会主義キリスト教徒教育者井口喜源治により、キリスト教精神に基づく人格教育が行われた[1]

歴史

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井口喜源治の胸像(井口喜源治記念館)

明治24年(1891年)に発足した東穂高禁酒会の夜学会に端を発し[1]、会員の学習の場を求める要望に答える形で、同31年(1898年)に東穂高村(穂高町の前身)矢原に開校した。理事は禁酒会指導者で穂高の素封家である相馬安兵衛[2]、臼井喜代が勤め、教科は穂高高等小学校を退職した井口喜源治がほぼ全てを担当し、裁縫科目のみ女性教師に委託する形式が採用された[1]。同34年(1901年)には私立学校の認可を受け、禁酒会会員らの寄付で、同村三枚橋に校舎を新築した[1]。塾の運営費は月謝や寄付金の他、井口の私財処分により賄われ、経営は困難を窮めたが、公費による補助金助成や、教育方針に反する寄付金は一切謝絶した。研成義塾には内村鑑三山室軍平畔上賢造手塚縫蔵ら多くの基督者が講演に訪れた[3]。内村は、1901年9月22日から3日間講演し、『萬朝報』に掲載した「入信日記」の中で次のように述べている。

南安曇郡東穂高村の地に研成義塾なる小さな私塾がある。若し之を慶應義塾とか早稲田専門学校とか言ふやうな私塾に較べて見たならば、実に見る影もないものである。其建物と言へば二間に四間の板屋根葺きの教場一つと八畳二間の部屋がある許りである。然し此の小義塾の成立を聞いて、余は有明山の巍々たる頂を望んだ時よりも嬉しかった。此の小塾を開いた意志は蝶ケ岳の花崗岩よりも硬いものであった。亦之を維持する精神は万水よりも清いものである。 — 「入信日記」

明治40年代以降、井口の教えに従ってアメリカカナダに渡った塾生は70名を越えた[4]。殊にシアトルに移住した塾生たち25名は清沢洌を中心に「シアトル穂高倶楽部」を結成し[5]、井口からの手紙を回読し[6]大正2年(1913年)に『新故郷』という機関紙を発刊して[7]、アメリカの国情や塾生の動向を郷里に伝えた。一方、地元の同窓生によって同人誌「故山新報」[8]が発行され、海外へ渡航した塾生にも郷里の出来事を知らせている。同11年(1922年)「長野県在外者取調」によれば、穂高周辺から渡米した者が突出しているが、英語と旧制中学卒業程度の学力が渡米条件であったため、移民希望者も研成義塾に入学するようになった[5]

しかし昭和7年(1931年)には、井口の健康状態悪化によって突如、休校状態に陥り、同13年(1938年)に閉校となった[9]。閉校までに巣立った塾生は約800名を数えた[10]。跡地には矢内原忠雄の揮毫により「研成義塾跡」の碑が建立された[11]。また「研成義塾跡」と「研成義塾創設の地跡」、「井口喜源治関係文書」は平成20年(2008年)に安曇野市指定有形文化財となった。

沿革

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  • 1898年(明治31年) - 東穂高村矢原の集会所を借用して開塾。
  • 1901年(明治34年) - 長野県から私立学校の認可を受け、東穂高村三枚橋に校舎を新築。
  • 1922年(大正11年) - 旧制中学校の教育課程を実施。
  • 1931年(昭和7年) - 休校。
  • 1938年(昭和13年) - 長野県が廃止認可。

設立趣意書

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「文明風村塾の真の教育を施さんがため」と目的を謳い、以下の6か条が定められている[13]

  • 吾塾は家庭的ならんことを期す
  • 吾塾は感化を永遠に期す
  • 吾塾は天賦の特性を発達せしめんことを期す
  • 吾塾は宗派の如何に干渉せず
  • 吾塾は新旧思想の調和を期す
  • 吾塾は社会との連絡に注意す

教育内容

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校名は明治初期に穂高地方15村が共同で設立した「研成学校」に由来し、井口が退職した穂高高等小学校の前身である[14]。当初の敷地は約180坪、教室は15坪で、のちに10坪の裁縫室が併設された[15]。学校課程は小学校尋常科卒業者を対象に、旧制中学校前期課程を履修する本科ないし高等科と、補習科、研究科が随時設置された[3]。明治40年度の教育科目は修身、国語、漢文、英語、作文、理科、歴史、地理、習字、図画、数学、体操、唱歌、裁縫となっており、キリスト教教育としては朝礼と食前時の祈祷、賛美歌、聖書学習があった。大正11年(1922年)以後は旧制中学校の教育課程となる[16]

主な出身者

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脚注

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  1. ^ a b c d 「長野県史 通史編 第7巻」p.543
  2. ^ 相馬愛蔵の兄
  3. ^ a b 「長野県史 通史編 第7巻」p.544
  4. ^ 「誇りて在り」p.18
  5. ^ a b 「長野県史 通史編 第8巻」p.376
  6. ^ 「誇りて在り」p.127
  7. ^ 「誇りて在り」p.93
  8. ^ 「誇りて在り」p.148
  9. ^ 「井口喜源治と研成義塾」p.852
  10. ^ 「誇りて在り」p.145
  11. ^ 「安曇野・穂高町の人物群像」p.123
  12. ^ 研成義塾跡”. 八十二文化財団. 2022年6月19日閲覧。
  13. ^ 「長野県教育史 第12巻」」p.315
  14. ^ 「安曇野・穂高町の人物群像」p.141
  15. ^ 「安曇野・穂高町の人物群像」p.135
  16. ^ 「井口喜源治と研成義塾」p.307

参考文献

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  • 長野県史 通史編 第7巻 近世1』
  • 『長野県史 通史編 第8巻 近世2』
  • 南安曇教育会編 『井口喜源治と研成義塾』 1981年
  • 宮原安春著 『誇りて在り―「研成義塾」アメリカへわたる』 講談社 1988年
  • 穂高中学校編 『孜々として―安曇野・穂高町の人物群像』 2000年

関連項目

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外部リンク

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