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石川晴光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石川晴光
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄元年11月20日1528年12月31日
死没 天正8年6月25日1580年8月5日
改名 鶴千代(幼名)→晴光
別名 小太郎(通称)、稙弘(初名?)、道堅(号)
戒名 恵徳院殿固嶽道賢大居士
墓所 長泉寺(福島県石川郡石川町
官位 従四位下修理大夫伊勢大和
氏族 陸奥石川氏
父母 父:石川稙光、母:田村隆顕
兄弟 晴光光暉竹貫角伝光従浅川義純?
正室:石川胤光
泉光専近内光広
養子:昭光伊達晴宗の子)、照子佐竹義昭の子)
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石川 晴光(いしかわ はるみつ)は、戦国時代大名陸奥石川氏第24代当主。陸奥国石川郡三芦城主。

生涯

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享禄元年(1528年)11月20日、陸奥石川氏第23代当主・石川稙光(たねみつ)の子として誕生。

享禄3年(1530年)、父の死去に伴い、3歳で家督を相続する。

天文12年(1543年)に勃発した天文の乱では近隣諸侯の多くと同様に伊達稙宗方として参戦。

天文15年(1546年)、上洛して室町幕府第12代将軍足利義晴から偏諱を賜り、晴光と名乗る[1]

天文17年(1548年)の天文の乱終結以後、田村隆顕蘆名盛氏らの勢力圏が石川郡内にまで及ぶようになると、この両者の抗争に巻き込まれる形で次第に所領を削り取られ、さらには一族の内紛を鎮めた常陸国佐竹義昭が、永禄3年(1560年)10月に白河結城氏から高野郡を奪取すると、奥州への進出を図って石川領へと兵を進め石川氏庶流の赤坂氏を傘下に降した。

これら諸勢力の圧迫を受けて窮地に陥った晴光は、伊達氏の庇護を求めるため、実子(光専光広[2])には家督を継がせず、永禄6年(1563年)10月に伊達晴宗の四男・昭光を養子に迎える[3]

しかし、この時点では遠方の伊達氏からの直接の援護を受けることは難しく、永禄10年(1567年)6月には佐竹義重に三芦城を攻め落とされると、家族と共に岩崎郡大館城岩城重隆(昭光・義重の祖父)の下へと逃れ、永禄11年(1568年)3月には昭光に家督を譲って隠居した。

永禄12年(1569年)に重隆の援護を受けて三芦城に復帰したものの、これ以後も石川領は田村・蘆名・佐竹の三つ巴の争いの渦中に在り、晴光は昭光と共に二度にわたって三芦城を追われている。

天正8年(1580年)6月25日、死去。享年53。

系譜

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参考文献

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  • 『石川町史』上巻(福島県石川郡石川町、1967)
  • 『角田市史』(宮城県角田市)
    • 第2巻(通史編下)1986
    • 別巻1 『石川氏一千年史』1985 ※原本は1918年刊行
  • 小豆畑毅「南奥戦国領主の離城と帰城-石川晴光・昭光父子の場合-」(『戦国史研究』59、2010)

脚注

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  1. ^ 「大和源氏石川家略譜」には、大永6年(1526年)に晴光が上洛したとの記述が有るが、これは父・稙光の事跡と混同したものである(この年は晴光がまだ誕生していない)。また、晴光の別名として「稙弘」(たねひろ)が伝わっているが、「稙」の字は、義晴の前の第10代将軍・足利義稙の偏諱に由来するものである。しかし、義稙在職時に晴光は生まれておらず、名乗っていたとすれば「晴光」と名乗る前までで、「稙」の字も義稙から1字を受けた父・稙光から与えられたということになる。
  2. ^ 実子の光専(みつたか)と光広(みつひろ)は奥州仕置による石川氏の改易後も昭光に従い、共に泉氏を名乗って陸奥仙台藩一門・角田石川氏の家老となった。
  3. ^ 『石川氏一千年史』は、昭光を晴光の娘婿に迎えたとしているが、伊達・佐竹両氏の系譜において昭光の正室は佐竹義昭の娘となっており、義昭の娘が晴光の養女として昭光に嫁いだものと考えられている。