真弓鑵子塚古墳
真弓鑵子塚古墳 | |
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石室開口部 | |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字真弓(字カンスズカ) |
位置 | 北緯34度27分56.45秒 東経135度47分23.25秒 / 北緯34.4656806度 東経135.7897917度座標: 北緯34度27分56.45秒 東経135度47分23.25秒 / 北緯34.4656806度 東経135.7897917度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
直径40m 高さ8m |
埋葬施設 | 片袖式横穴式石室 |
出土品 | 刀装具・玉類・馬具・鉄鏃・須恵器・土師器 |
築造時期 | 6世紀中葉 |
被葬者 | (一説)東漢氏一族 |
史跡 | なし |
地図 |
真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村真弓にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]奈良盆地南縁、越岡丘陵の越峠から北西に延びる一支尾根の先端部において、丘陵を大規模に造成して築造された大型円墳である。近年に発掘調査が実施されている。
墳形は円形で、直径約40メートル・高さ約8メートルを測る[1]。墳丘は2段築成で、岩盤を削り出して造成したのち盛土によって構築される[1]。埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。玄室の南北に羨道状施設を付す特異な形態の石室であり、石材の急な持ち送りによって天井がドーム状を呈する点でも特徴を示す。石室内からは、副葬品として刀装具・玉類・馬具・鉄鏃・須恵器・土師器などが検出されている。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉ごろと推定される。一帯では、同様のドーム状天井の横穴式石室として与楽カンジョ古墳・与楽鑵子塚古墳などが所在するほか、ミニチュア炊飯具など渡来系遺物がスズミ1号墳・与楽古墳群・寺崎白壁塚古墳などから出土しており[1]、本古墳もまた渡来系氏族(特に東漢氏一族)の墓と推測される[2]。
遺跡歴
[編集]- 1913年(大正2年)、奈良県史蹟調査会による調査(1915年に報告)[3]。
- 大正時代刊行の『高市郡古墳誌』に記述[1]。
- 1962年(昭和37年)11月、石室実測調査(末永雅雄ら後期古墳研究会)。
- 範囲確認調査(明日香村教育委員会、2010年に報告書刊行)。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては片袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:17.8メートル(または19メートル以上[1])
- 奥室:長さ3.7メートル、幅2.2メートル、高さ2.2-2.4メートル
- 玄室:長さ6.5メートル、幅4.3メートル、高さ4.3メートル
- 羨道:長さ6.6メートル、幅2-2.2メートル、高さ2.2メートル
石室の平面形は、玄室の南北に羨道状施設を付す特異な形態であり、類例としては市尾墓山古墳(高取町)が知られる。かつては1玄室2羨道とする説もあったが、近年では北側の施設は奥室と解される。
石室の石材は石英閃緑岩の巨石で、壁面は6-7段積みによって構築される。特に3段目以上は急激に持ち送っており、天井はドーム状(穹窿状)を呈する。天井石は3枚。石室の床面には、幅約30センチメートル・深さ約7センチメートルの排水溝が認められる。また羨道部では人頭大の石材の閉塞石が認められる[1]。
石室内の調査では、鉄釘・凝灰岩片のほか、副葬品として銀象嵌刀装具・玉類・金銅製装飾金具・金銅製馬具・鉄鏃・須恵器・土師器が出土している[1]。
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奥室(北方向)
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奥室(方向)
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玄室(南方向)
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羨道(北方向)
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獣面飾金具
明日香村埋蔵文化財展示室展示。 -
板状土製品
明日香村埋蔵文化財展示室展示。
関連施設
[編集]- 明日香村埋蔵文化財展示室(明日香村飛鳥) - 真弓鑵子塚古墳の出土品を保管・展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(明日香村設置)
- 「真弓鑵子塚古墳(明日香村の文化財10)」 (PDF) (明日香村教育委員会、2008年)。
- 「真弓鑵子塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 「真弓鑵子塚古墳」『続 明日香村史 上巻』明日香村、2006年。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『真弓鑵子塚古墳発掘調査報告書 -飛鳥の穹窿状横穴式石室墳の調査-(明日香村文化財調査報告書 第7集)』明日香村教育委員会文化財課、2010年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 真弓鑵子塚古墳 - 明日香村ホームページ