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真弓鑵子塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真弓鑵子塚古墳

石室開口部
所在地 奈良県高市郡明日香村大字真弓(字カンスズカ)
位置 北緯34度27分56.45秒 東経135度47分23.25秒 / 北緯34.4656806度 東経135.7897917度 / 34.4656806; 135.7897917座標: 北緯34度27分56.45秒 東経135度47分23.25秒 / 北緯34.4656806度 東経135.7897917度 / 34.4656806; 135.7897917
形状 円墳
規模 直径40m
高さ8m
埋葬施設 片袖式横穴式石室
出土品 刀装具・玉類・馬具・鉄鏃・須恵器土師器
築造時期 6世紀中葉
被葬者 (一説)東漢氏一族
史跡 なし
地図
真弓 鑵子塚古墳の位置(奈良県内)
真弓 鑵子塚古墳
真弓
鑵子塚古墳
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真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村真弓にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。

概要

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奈良盆地南縁、越岡丘陵の越峠から北西に延びる一支尾根の先端部において、丘陵を大規模に造成して築造された大型円墳である。近年に発掘調査が実施されている。

墳形は円形で、直径約40メートル・高さ約8メートルを測る[1]。墳丘は2段築成で、岩盤を削り出して造成したのち盛土によって構築される[1]。埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南方向に開口する。玄室の南北に羨道状施設を付す特異な形態の石室であり、石材の急な持ち送りによって天井がドーム状を呈する点でも特徴を示す。石室内からは、副葬品として刀装具・玉類・馬具・鉄鏃・須恵器土師器などが検出されている。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀中葉ごろと推定される。一帯では、同様のドーム状天井の横穴式石室として与楽カンジョ古墳与楽鑵子塚古墳などが所在するほか、ミニチュア炊飯具など渡来系遺物がスズミ1号墳・与楽古墳群英語版寺崎白壁塚古墳などから出土しており[1]、本古墳もまた渡来系氏族(特に東漢氏一族)の墓と推測される[2]

遺跡歴

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  • 1913年大正2年)、奈良県史蹟調査会による調査(1915年に報告)[3]
  • 大正時代刊行の『高市郡古墳誌』に記述[1]
  • 1962年昭和37年)11月、石室実測調査(末永雅雄ら後期古墳研究会)。
  • 範囲確認調査(明日香村教育委員会、2010年に報告書刊行)。

埋葬施設

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石室 玄室(北方向)

埋葬施設としては片袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]

  • 石室全長:17.8メートル(または19メートル以上[1]
  • 奥室:長さ3.7メートル、幅2.2メートル、高さ2.2-2.4メートル
  • 玄室:長さ6.5メートル、幅4.3メートル、高さ4.3メートル
  • 羨道:長さ6.6メートル、幅2-2.2メートル、高さ2.2メートル

石室の平面形は、玄室の南北に羨道状施設を付す特異な形態であり、類例としては市尾墓山古墳高取町)が知られる。かつては1玄室2羨道とする説もあったが、近年では北側の施設は奥室と解される。

石室の石材は石英閃緑岩の巨石で、壁面は6-7段積みによって構築される。特に3段目以上は急激に持ち送っており、天井はドーム状(穹窿状)を呈する。天井石は3枚。石室の床面には、幅約30センチメートル・深さ約7センチメートルの排水溝が認められる。また羨道部では人頭大の石材の閉塞石が認められる[1]

石室内の調査では、鉄釘・凝灰岩片のほか、副葬品として銀象嵌刀装具・玉類・金銅製装飾金具・金銅製馬具・鉄鏃・須恵器土師器が出土している[1]

関連施設

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  • 明日香村埋蔵文化財展示室(明日香村飛鳥) - 真弓鑵子塚古墳の出土品を保管・展示。

脚注

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参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(明日香村設置)
  • 「真弓鑵子塚古墳(明日香村の文化財10)」 (PDF) (明日香村教育委員会、2008年)
  • 「真弓鑵子塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
  • 「真弓鑵子塚古墳」『続 明日香村史 上巻』明日香村、2006年。 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『真弓鑵子塚古墳発掘調査報告書 -飛鳥の穹窿状横穴式石室墳の調査-(明日香村文化財調査報告書 第7集)』明日香村教育委員会文化財課、2010年。 

関連項目

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外部リンク

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