田村顕寛
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田村 顕寛(たむら あきひろ、万治2年(1659年)[1] - 元禄9年7月4日(1696年8月1日))は、江戸時代中期の旗本寄合席。一関藩主家田村家分家の旗本田村家初代当主。諱は宗辰(むねとき)、顕寛。幼名は七郎、通称は主殿。父は田村宗良、母は仙台藩士の山口重如の娘。兄は田村建顕。弟は田村顕始、田村顕普、田村宗常。実子は娘(建顕養女、永井尚品(修理)の婚約者)のみ。
生涯
[編集]当時栗原郡岩ヶ崎領主で、後に岩沼藩主となる田村宗良の三男として出生した。母は『寛政重修諸家譜』では山口重如の娘とする。延宝2年(1674年)に徳川家綱に初御目見を済ます。延宝6年(1678年)に父が死去する。次兄の建顕が家督を相続し、岩沼藩主、次いで一関藩主となる。建顕が諱を「宗永」と称していた頃から舎弟の一人として武鑑に登場しており、天和3年(1683年)刊行の武鑑に「御二男 田村主殿 殿」の記載がある。
元禄7年(1694年)8月21日に兄の建顕より蔵米700俵の内分分知を受けて分家し、旗本寄合席に列する。元禄9年(1696年)に兄に先立って死去する。享年38。法名は自牧。墓所は芝東禅寺。
実子は娘1人のみのため、末期養子として弟の顕始が跡を継いだ。娘は建顕の養女となって永井尚品(修理)と婚約するが早世した。
脚注
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』記載の享年からの逆算
参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
- 寛政重修諸家譜 巻第千五百三
- 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)