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田村顕寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田村 顕寛(たむら あきひろ、万治2年(1659年[1] - 元禄9年7月4日1696年8月1日))は、江戸時代中期の旗本寄合席一関藩主家田村家分家の旗本田村家初代当主。は宗辰(むねとき)、顕寛。幼名は七郎、通称は主殿。父は田村宗良、母は仙台藩士の山口重如の娘。兄は田村建顕。弟は田村顕始田村顕普田村宗常。実子は娘(建顕養女、永井尚品(修理)の婚約者)のみ。

生涯

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当時栗原郡岩ヶ崎領主で、後に岩沼藩主となる田村宗良の三男として出生した。母は『寛政重修諸家譜』では山口重如の娘とする。延宝2年(1674年)に徳川家綱に初御目見を済ます。延宝6年(1678年)に父が死去する。次兄の建顕が家督を相続し、岩沼藩主、次いで一関藩主となる。建顕が諱を「宗永」と称していた頃から舎弟の一人として武鑑に登場しており、天和3年(1683年)刊行の武鑑に「御二男 田村主殿 殿」の記載がある。

元禄7年(1694年)8月21日に兄の建顕より蔵米700俵の内分分知を受けて分家し、旗本寄合席に列する。元禄9年(1696年)に兄に先立って死去する。享年38。法名は自牧。墓所は芝東禅寺

実子は娘1人のみのため、末期養子として弟の顕始が跡を継いだ。娘は建顕の養女となって永井尚品(修理)と婚約するが早世した。

脚注

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』記載の享年からの逆算

参考文献

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  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)