田村寛一
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田村 寛一 | |
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生誕 |
1842年10月23日 日本 長門国阿武郡萩城下 (山口県萩市) |
死没 | 1899年3月4日(56歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1899年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
田村 寛一(たむら かんいち、1842年10月23日〈天保13年9月20日[1]〉- 1899年〈明治32年〉3月4日[2][3][4][注釈 1])は、幕末の長州藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれた[1][2]。江戸に遊学し江川英龍の江川塾で砲術を学び、帰藩して萩調製方に出仕した[2]。四境戦争、戊辰戦争に従軍した[2]。
1871年(明治4年)御親兵として上京[1]。佐賀の乱、西南戦争に従軍した[2]。
1885年(明治18年)5月、参謀本部副官に就任[3]。1886年(明治19年)5月、歩兵第6連隊長となり、1888年(明治21年)11月、陸軍歩兵大佐に昇進[3]。近衛歩兵第1連隊長、陸軍省人事課長を歴任し、1894年(明治27年)10月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長に就任[3][4]。日清戦争に出征したが、大連に到着時点で講和となった[4]。
台湾守備混成第2旅団長、近衛歩兵第2旅団長を経て、1898年(明治31年)10月、陸軍中将に進み初代第12師団長に親補され、在任中に死去した[2][3][4][5]。
親族
[編集]- 三男 田村寛貞(音楽学者)[6]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』375頁では明治32年3月6日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 田村哲夫編『防長維新関係者要覧』山口県地方史学会、1969年。
- 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。