田島竹之助
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田島竹之助 たじま たけのすけ | |
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生年月日 | 1867年1月21日 |
出生地 |
日本 武蔵国埼玉郡小針村 (現・埼玉県行田市) |
没年月日 | 1939年7月14日(72歳没) |
前職 | 農業[1] |
在任期間 | 1904年9月29日 - 1918年9月28日 |
田島 竹之助(田嶋[2]、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日[3]〉 - 1939年〈昭和14年〉7月14日[2][3])は、日本の篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族[1][4]。
経歴
[編集]武蔵国埼玉郡小針村[3](のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針[5]、現:行田市)で、豪農[3]・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる[4]。1879年6月、祖父・新六から家督を相続した[4]。農業を営む[4]。
農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた[3][5]。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した[3][5]。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に務め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した[3][5]。
政界では旧忍藩領内に国民協会の忍同志会を組織して、騎西同志会、殉交倶楽部と連携して県政に重きをなした[3][5]。1896年以降、主猟官、臨時治水調査会委員などを務めた[2]。
1904年9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[6]、二期務めて1918年9月28日に退任した[2][3]。
また、忍商業銀行の設立にも参加し取締役を務めた[3][4]。
人物
[編集]忍藩士から剣道を学び、自邸内の尚武館で地元子弟の養成を行い、忍警察署武術教授、大日本武徳会埼玉支部の名誉教授・常議員を務め教士号を許された[3][5]。
家族・親族
[編集]- 田島家
- 妻・新之助(埼玉士族)[1][4]
- 妻・さわ(1869年 - ?、埼玉、須田秀實の長女)[1][4]
- 長男・太郎(1891年 - ?)[1]
- 二男・二郎(1896年 - ?)[1]
- 長女・ふき(1885年 - ?、伯爵・林博太郎の妻)[1]
- 二女・千代(1887年 - ?、埼玉、門井東一の妻)[1]
- 親戚
- 妻の妹の夫・武政恭一郎(深谷銀行取締役)[1]
- 長女の夫・林博太郎(伯爵)[1]
- 二女の夫・門井東一(農業、埼玉県多額納税者、埼玉県会議員)[1]
- 弟・石崎丈太郞(小山銀行頭取・石崎政蔵の養子となり、東京府多額納税者、足利銀行、下毛貯蓄銀行、合同肥料各取締役)[7]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第8版』カ91、タ12、タ208頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月16日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』206頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『埼玉人物事典』506頁。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』た41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月16日閲覧。
- ^ a b c d e f 『埼玉壱百人』65-66頁。
- ^ 『官報』第6377号、明治37年9月30日。
- ^ 石崎丈太郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]