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田島竹之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田島竹之助
たじま たけのすけ
生年月日 1867年1月21日
出生地 日本の旗 日本 武蔵国埼玉郡小針村
(現・埼玉県行田市
没年月日 (1939-07-14) 1939年7月14日(72歳没)
前職 農業[1]

在任期間 1904年9月29日 - 1918年9月28日
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田島 竹之助(田嶋[2]、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日[3]〉 - 1939年昭和14年〉7月14日[2][3])は、日本篤農家実業家政治家貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族[1][4]

経歴

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武蔵国埼玉郡小針村[3](のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針[5]、現:行田市)で、豪農[3]・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる[4]1879年6月、祖父・新六から家督を相続した[4]農業を営む[4]

農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた[3][5]。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した[3][5]。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に務め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した[3][5]

政界では旧忍藩領内に国民協会の忍同志会を組織して、騎西同志会、殉交倶楽部と連携して県政に重きをなした[3][5]1896年以降、主猟官、臨時治水調査会委員などを務めた[2]

1904年9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ[6]、二期務めて1918年9月28日に退任した[2][3]

また、忍商業銀行の設立にも参加し取締役を務めた[3][4]

人物

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藩士から剣道を学び、自邸内の尚武館で地元子弟の養成を行い、忍警察署武術教授、大日本武徳会埼玉支部の名誉教授・常議員を務め教士号を許された[3][5]

家族・親族

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田島家
  • 妻・新之助(埼玉士族)[1][4]
  • 妻・さわ1869年 - ?、埼玉、須田秀實の長女)[1][4]
  • 長男・太郎1891年 - ?)[1]
  • 二男・二郎1896年 - ?)[1]
  • 長女・ふき1885年 - ?、伯爵・林博太郎の妻)[1]
  • 二女・千代1887年 - ?、埼玉、門井東一の妻)[1]
親戚
  • 妻の妹の夫・武政恭一郎(深谷銀行取締役)[1]
  • 長女の夫・林博太郎伯爵[1]
  • 二女の夫・門井東一(農業、埼玉県多額納税者、埼玉県会議員)[1]
  • 弟・石崎丈太郞(小山銀行頭取・石崎政蔵の養子となり、東京府多額納税者、足利銀行、下毛貯蓄銀行、合同肥料各取締役)[7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第8版』カ91、タ12、タ208頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月16日閲覧。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』206頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『埼玉人物事典』506頁。
  4. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』た41頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年7月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 『埼玉壱百人』65-66頁。
  6. ^ 『官報』第6377号、明治37年9月30日。
  7. ^ 石崎丈太郞『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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  • 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 岸上克己『埼玉壱百人』埼玉通信社ほか、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。