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王秉鐸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王秉鐸
『満洲紳士録』第二版(1940年)
プロフィール
出生: 1901年光緒27年)[1][2]
死去: 没年不詳
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区旅順[2][3]
職業: 官僚
各種表記
繁体字 王秉鐸
簡体字 王秉铎
拼音 Wáng Bǐngduó
ラテン字 Wang Ping-to
和名表記: おう へいたく
発音転記: ワン・ピントー(ワン・ビンドゥオ)
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王 秉鐸(おう へいたく、1901年 – 没年不詳)は、満洲国の官僚。実兄は、同じく満洲国で官僚をつとめた王子衡[3]

事績

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旅順師範学堂卒業後、兄・王子衡の資金援助を受けて日本に留学する。まず山形高等学校で学び[3][4]、次いで1930年(民国19年/昭和5年)に京都帝国大学法科を卒業したとされる[5]

帰国後は満洲国で監察院審計官、奉天市公署総務科長、奉天省理事官[2]、民政部理事官兼総務庁参事官、大同学院教官、民生部参事官、民生部大臣官房弁事、民生部社会司社会科長、民生部厚生司長兼大同学院教官を歴任する。1941年康徳8年)6月、総務庁統計処長に任命され[1]1944年(康徳11年)12月16日、北安省長に抜擢された[6]。なお、最後の北安省長となっている。

満洲国崩壊後、王秉鐸は兄の王子衡と同様にソ連軍に逮捕され、シベリアで拘留された。1950年8月、中華人民共和国に送還され、撫順戦犯管理所で収監された。

王秉鐸の没年は不詳だが、兄の王子衡が釈放される以前に撫順戦犯管理所で死去している。

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  1. ^ a b 帝国秘密探偵社編(1943)、「満洲」68頁。
  2. ^ a b c 満蒙資料協会(1943)、1166頁。
  3. ^ a b c 『旅順口区志』編纂委員会(1999)、843頁。
  4. ^ 山形高等学校四十年記念会(1960)、13・141頁。
  5. ^ 『旅順口区志』編纂委員会(1999)は東北帝国大学卒としているが、帝国秘密探偵社編(1943)及び満蒙資料協会(1943)に従う。
  6. ^ 「人事異動」『同盟時事月報』8巻12号通号223号、昭和19年12月号(昭和20年1月14日発行)、同盟通信社、72-73頁。

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第四版』満蒙資料協会、1943年。 
  • 『旅順口区志』編纂委員会『旅順口区志』大連出版社、1999年。 
  • 山形高等学校四十年記念会『創立四十年誌 山形高等学校・山形大学文理学部』1960年。 
  満州国
先代
李叔平
北安省長
1944年12月16日 – 1945年8月18日
次代
(廃止)