王子衡
王子衡 | |
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『実業の世界』臨増(1938年9月18日) | |
プロフィール | |
出生: | 1894年(光緒20年)[1][2] |
死去: | 没年不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区旅順 [3][4][5][6] |
職業: | ジャーナリスト・官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 王子衡 |
簡体字: | 王子衡 |
拼音: | Wáng Zǐhéng |
ラテン字: | Wang Tzu-heng |
和名表記: | おう しこう |
発音転記: | ワン・ツーホン |
王 子衡(おう しこう、1894年 – 没年不詳)は、中華民国・満洲国のジャーナリスト・官僚。弟に王秉鐸 [6]。
事績
[編集]1901年(光緒27年)から1912年(民国元年)まで私塾で学ぶ。1913年(民国2年)に旅順中学に入学し、1918年(民国7年)卒業。翌1919年(民国7年)、日本に留学して早稲田大学政治経済科に入学、1922年(大正11年)に卒業したとされる[3][7](ただし、日中双方の資料で「卒業」とされるが、同大学の校友会会員名簿(大正十四年十一月調、昭和十年用)には、その名が見当たらない)。
帰国後の1923年(民国12年)、大連の新聞『関東報』で編集長となった。1925年(民国14年)以降は奉天省公署秘書、北京政府実業部監事、奉天省公署咨議を歴任している。1931年(民国20年)4月、『関東報』で主筆となるが、満洲事変勃発後の同年11月からは奉天地方自治指導部長・于沖漢の秘書をつとめた[3]。
満洲国建国後の1932年(大同元年)3月、満洲国監察院監察官に任命され、6月には国務院総務庁秘書官へ移る。1938年(康徳5年)8月15日[8][9]、黒河省長となるが任期は短く、12月27日に更迭され[10]、翌1939年(康徳6年)1月1日に産業部畜産司長に転じた。1940年(康徳7年)5月、興農部農政司長(後に農産司長と改称)となり、翌1941年(康徳8年)6月、満洲国協和会中央本部指導部長に任命された[3]。1943年(康徳10年)4月20日[11]、浜江省長に改任され[12]、そのまま満洲国崩壊を迎えた。
満洲国崩壊後、王子衡はソ連軍に逮捕され、シベリア第45収容所に収監された。1950年8月、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所で思想改造を受ける。後に釈放され、文史資料執筆などを行った。なお、没年については不詳である[6]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 中央檔案館編(2000)、355頁に、1954年6月26日当時、「61歳」とある。同書の他の人物の年齢記載(例:盧元善)が数え年となっているため、「1894年生まれ」と見なす。
- ^ 帝国秘密探偵社編(1943)、尾崎監修(1940)、『旅順口区志』編纂委員会(1999)は、いずれも「1896年(光緒22年)」としているが、本人の供述調書である中央檔案館編(2000)にいったん従う。
- ^ a b c d 中央檔案館編(2000)、355-356頁。
- ^ 帝国秘密探偵社編(1943)、「満洲」67頁。
- ^ 尾崎監修(1940)、9頁。
- ^ a b c 『旅順口区志』編纂委員会(1999)、843頁。
- ^ 卒業年については、「1921年」説(帝国秘密探偵社編(1943)、尾崎監修(1940)もあるが、その場合でも校友会員名簿に名前が見当たらない。
- ^ 「駐独公使正式発令」『同盟旬報』2巻23号通号42号、昭和13年8月中旬号(8月10日発行)、同盟通信社、2195頁。
- ^ 中央檔案館編(2000)、356頁は「同年7月」としているが、誤り。
- ^ 「人事異動」『同盟旬報』2巻36号通号55号、昭和13年12月下旬号(昭和14年1月10日発行)、同盟通信社、85頁。
- ^ 中央檔案館編(2000)、356頁は「同年6月」としているが、誤り。
- ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、164頁。
参考文献
[編集]- 「王子衡筆供(1954年6月26日)」中央檔案館編『偽満洲国的統治与内幕―偽満官員供述』中華書局、2000年。ISBN 7-101-01888-2。
- 『旅順口区志』編纂委員会『旅順口区志』大連出版社、1999年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 満洲国史編纂委員会編『満洲国年表 本編』満蒙同胞援護会、1956年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。