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玉手山七郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 - 1941年9月13日)は、福井県大野郡(現大野市)出身で大嶽部屋から雷部屋を経て中村部屋に所属した大相撲力士。本名は縁本 七郎。身長171cm、体重90kg。最高位は関脇

来歴

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大嶽部屋に入門し、1904年1月序ノ口となったがすぐに脱走。その後大坂相撲に加入し入幕したが、放駒の東京相撲への加入問題での混乱に嫌気が差して脱走し、東京相撲で幕内に附け出された。1914年1月大関駒ヶ嶽を外掛け、大関西ノ海をうっちゃりで預かりとなり、5月に新小結。1915年1月には関脇に昇進、衰退する雷部屋の盛り上げ役となった。その後は衰え1918年1月引退し、年寄大嶽となったが1920年廃業。その後は玉手山養鶏場を経営して、鶏卵・酒類販売業を営んで繁盛した。1941年9月、肝臓癌で死去。墓所は多磨霊園[1]

略歴

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主な成績

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  • 幕内戦績:55勝50敗16分3預26休(15場所)
玉手山 七郎
春場所 夏場所
1904年
(明治37年)
序ノ口
[2] 
(大坂相撲)
1905年
(明治38年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1906年
(明治39年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1907年
(明治40年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1908年
(明治41年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1909年
(明治42年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1910年
(明治43年)
(大坂相撲) (大坂相撲)
1911年
(明治44年)
西前頭16枚目
4–3–3[3] 
西前頭15枚目
5–4
1分
 
1912年
(明治45年)
東前頭7枚目
7–3 
西前頭2枚目
2–6
1分
 
1913年
(大正2年)
西前頭9枚目
2–2–3
2分1預
 
東前頭9枚目
6–1–1
2分
 
1914年
(大正3年)
東前頭筆頭
5–2
2分1預
 
西小結
6–1
3分
 
1915年
(大正4年)
西関脇
4–2–1
3分
 
東小結
4–4
1分1預
 
1916年
(大正5年)
西関脇
1–6–3 
西前頭3枚目
6–4 
1917年
(大正6年)
東小結
1–9 
東前頭7枚目
1–3–6 
1918年
(大正7年)
西前頭12枚目
引退
1–0–9
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

四股名変遷

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  • 狼 七郎(おおかみ しちろう) 1904年1月場所 - 1905年1月場所
  • 小嵐 七郎(こあらし -)1905年6月場所(大坂)- 1908年1月場所
  • 龍田川 七郎(たつたがわ -)1910年1月場所 -
  • 小嵐 七郎(こあらし -)1910年1月場所 - 1911年2月場所(大坂相撲)
  • 玉手山 勝司(たまてやま かつじ)1911年2月場所 - 1912年5月場所
  • 玉手山 七郎(- しちろう)1913年1月場所 - 1918年1月場所

関連項目

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脚注

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  1. ^ 玉手山七郎”. www6.plala.or.jp. 2024年11月28日閲覧。
  2. ^ 番付面に自身の四股名は見えない。
  3. ^ 番付外。