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猪子止戈之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日万延元年4月4日[1] - 1944年昭和19年)1月31日)は、明治期から昭和初期における外科医京都帝国大学医科大学名誉教授同附属病院初代院長、日本で最初の喉頭癌手術を行った。但馬国豊岡藩出身。

生涯

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1860年6月(万延元年4月)但馬豊岡藩(現:兵庫県豊岡市)の家老猪子清の長男として誕生した[2][3]藩校、稽古堂を経て[4]1873年(明治6年)東京外国語学校に入り、翌年東京医学校に転じ、1882年(明治15年)3月東京大学医学部を卒業した[2][3]。同期には青山胤通西郷吉義佐藤三吉田代正等がいる[5]

卒業した年の5月京都府立医学校教諭になり[6]1887年(明治20年)には医学校校長に就任[7]、翌年には日本で初の喉頭癌全剔出摘出手術を成功させた[8]

その後、第三高等中学校(京都帝国大学の前身)教授となり[2][3]1891年(明治24年)大津事件で負傷したロシア皇太子(後のニコライ2世)を京都で治療。1892年(明治25年)ドイツ留学を命じられ[9]帰国後第三高等中学校に復職した[3]1895年(明治28年)には我が国初の胃切除手術を行い、官立医科大学の京都設置ならびに附属医院設立に奔走し1899年(明治32年)京都帝国大学医科大学が創立すると初代教授として外科学第一講座を担当した[7]。同年12月医学博士学位を授与され[10]1900年(明治33年)には再び渡欧を命じられドイツで外科学を研鑽した[3][9]

1921年大正11年)京都帝国大学を退官し同大学より名誉教授に補され[7]、1944年(昭和19年)1月31日死去した。

栄典

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位階
勲章等

論文・著作

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  • 「生理及衛生 中学教科」(富永兼棠・河野学一著 猪子止戈之助閲 石井清 1901年)
  • 「校友会雑誌」 P26「臨床講義(科學) 猪子止戈之助・古島慶」(京都府立医科大学 1899年10月19日)

親族

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人事興信録の4巻と8巻より。

縁者

脚注

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  1. ^ 『人事興信録 5版』(人事興信所、1918年)い66頁
  2. ^ a b c 「昭和人名辞典」 Pイ67「猪子止戈之助」の項(光人社 1933年)
  3. ^ a b c d e 「代表的人物及事業」 医術界p.7「猪子止戈之助」の項(時事通信社編輯局 時事通信社 1913年)
  4. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、321頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  5. ^ 「東京帝国大学一覧 従明治21年至22年」(東京帝国大学 1889年)
  6. ^ 京都府立医科大学 外科学教室 消化器外科部門. “消化器外科学部門の成り立ち”. 2013年2月9日閲覧。
  7. ^ a b c 「京都大学七十年史」(京都大学七十年史編集委員会編 京都大学 1967)
  8. ^ 「京都の医学史 資料編」(京都府医師会編 思文閣出版 1980年)
  9. ^ a b 「幕末明治海外渡航者総覧 第1巻」p.126「猪子止戈之助」の項(手塚晃・国立教育会館編 柏書房 1992年)
  10. ^ 「大日本博士録 大正11年9月1日」博士番号第48
  11. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  12. ^ 『官報』第4421号「叙任及辞令」1898年3月31日。
  13. ^ 『官報』第5679号「叙任及辞令」1902年6月11日。
  14. ^ 『官報』第6427号「叙任及辞令」1904年12月1日。
  15. ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
  16. ^ 『官報』第891号「叙任及辞令」1915年7月21日。
  17. ^ 『官報』第2557号「叙任及辞令」1921年2月12日。
  18. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  19. ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
  20. ^ 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
  21. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  22. ^ 『官報』第1346号「叙任及辞令」1917年1月30日。