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獨逸学協会学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
独逸学協会学校から転送)
獨逸学協会学校初代校長の西周

独逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう、旧字体獨逸󠄁學協會學校󠄁)は、ドイツの文化と学問を学ぶ目的の下、獨逸学協会によって1883年明治16年)10月東京府麹町区五番町13番地[注釈 1](現:東京都千代田区一番町25[注釈 2])に創立された私立の旧制学校である。中等教育課程の「普通科」と、一時期は高等教育課程である「専修科」を併設していた。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である。

沿革

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ドイツ学協会名誉会員名簿(50音順、1889年)。

創立者の独逸学協会は、1881年「ドイツ文化の移植」を目的に設立された団体である。学校創立に際しては初代学長の西周加藤弘之ら、当時の啓蒙学者が関与、ドイツ啓蒙主義を基礎とした。創立メンバーには井上毅青木周蔵桂太郎らも名を連ねているが、学校運営を中心的に担っていたのは協会委員長の品川弥二郎であった。

創立当初は、基礎から学ぶ「正則科(初等・高等)」と、速成を目的とする「変則科」の2科を設置していた。

創立翌年の1884年10月、神田区西小川町一丁目15番地[注釈 3](現:東京都千代田区西神田二丁目6[注釈 4])に新校舎が落成し、独逸学協会学校は麹町区五番町から移転した。また校則改正により、正則科は中等教育課程の普通科に改組された。さらに1885年7月には変則科を廃し、ドイツの法律や政治を学ぶための専修科を普通科の上位の課程として設置した。専修科は司法省文部省など政府から多額の財政支援を受け、当時のいわゆる「九大法律学校」の一つに数えられた[注釈 5]。現在の法科大学院の先駆けとも言える専修科は、その後政府からの補助金が打ち切られたことから経営が行き詰まり[注釈 6]1895年7月には教授陣や教育課程がそのまま帝国大学独法科[注釈 7]へ移管され、廃止された[注釈 8] [注釈 9] [注釈 10]

しかし、専修科廃止後も独逸学協会学校自体は旧制中学校として存続した。

1901年12月、西小川町校舎は夜間の出火により、書庫等を含め焼失した。翌年、独逸学協会学校は小石川区関口台町16番地[注釈 11](現:東京都文京区関口三丁目8-1)の現校地に移転した。

独逸学協会学校普通科(1893年に獨逸学協会学校中学、1937年に獨逸学協会中学校と改称)は、一高合格者数で首位となっていた時期があった。医学の分野に限って見ても日本はドイツを模範にしていた時代であり、特に一高三部(大学で医科修学志望)の入学試験ではドイツ語が課されていたため、独逸学協会学校からの進学者が多かった。大正時代半ばまでは上位にいたことが記録から明らかになっているが、第一次世界大戦でドイツが敗れるとドイツ語を学ぶ生徒が激減し、一高合格者数の上位には見かけなくなった。

学校教育法施行に伴い、独逸学協会中学校は1948年に新制中学校・高等学校へ改組され、現在は獨協中学校・高等学校となっている。なお、獨協学園では前期の「専修科」を戦後1964年に設立された獨協大学の源流と位置づけている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 旧:陸軍外国人教師館空き家。
  2. ^ 跡地は半蔵門ミュージアムと、全国町村議員会館の東側を除いた、残りのおよそ3分の2にあたる敷地となっている。
  3. ^ 旧:北白川宮邸。幕末期には、徳川将軍直轄の軍団、御書院番の番士であった黒川左京の武家屋敷があった。
  4. ^ 跡地には1903年(明治36年)に西小川尋常小学校(のちの西神田小学校)が開校し、さらに戦後の1946年昭和21年)には西神田幼稚園が併設された。小学校開校から、まもなく90年を迎える1992年平成4年)頃には千代田区により公共施設適正配置構想が推進され、小学校と幼稚園は1993年(平成5年)3月をもって、長い歴史に幕を下ろした。1999年(平成11年)、新たに集合住宅や保育園、児童センターなどが入る複合施設として西神田コスモス館に生まれ変わり、現在にいたる。
  5. ^ 協会学校は創立以来、官立学校並みの異例の特典に浴していた。このことは、政府要人との密接な人的関係と相まって、協会学校に準官立的な性格を付与し、他の私立学校とは際立った対照をみせていた。一方ではそれは学校関係者の誇りでもあったろうが、他方では主体的な経営努力を怠ることにもなったようだ。1890年(明治23年)に第一回帝国議会が開かれたとき、この補助金が全廃され、学校当局は大きな打撃を受けることになったのである[1]
  6. ^ 「専修科十年の概略史」を書いた中村健一郎は、厳しく経営陣の怠慢を非難している。そのまま引用する。 「然しかかる光栄の歴史ある学校も有志の士奮起すれば、存続必ずしも不可能ではなかつたに違ひない。然るに元これを設立した人々が皆政府の顕職に在る人で、学校の経営は寧ろ片手間の、云はば内職仕事と云つてもよい位であるのが、かかる衰運に際してもあまり熱心に存続するの意志がなかつた。もし大学にも独法科が出来たし、自分達の懐抱する所も多少達せられたとし、又学校の将来を引受けたる人が、普通の教育家であつて、僅々中学の経営を以て満足したる等に起するものである[2][3]。」
  7. ^ 帝国大学においては、法科大学1886年(明治19年)に設立され、翌年には法律学科に独法科が設置された。ドイツ法学を踏まえた「法学士の養成」こそが、専修科の最大目標であったことからすれば、(この頃から)早くも専修科の存在意義が問われはじめたのである[4]
  8. ^ 1892年(明治25年)4月に創刊された同窓会の機関誌、『校友会雑誌』の創刊号において、山脇玄は独逸学協会学校の将来について、婉曲な表現ながらも専修科切り捨ての宣言に他ならない言葉を述べている。 「是ヲ以テ、曩ニ独逸学協会学校ヲ創設スルニ当テヤ、此ニ視ル所アリ、専ラ普通科ヲ教授シテ、日本全国ニ堅牢ナル専修科ノ基礎ヲ造ルヲ以テ目的ト定メ、爾来着々其歩ヲ進メタリ。然ルニ、其後種々ナル原由ノ備ハルアリテ傍ラ専修科ヲ設ケ、当分法学ヲ教授スルコトトナレリ。之ニ由テ是ヲ観ルモ我学校ノ重ナル学科ハ普通科ニ在ルヘキヲ以テ、今後益々、此ニ力ヲ用ヰ、益々堅牢ナル専門学ノ基礎ヲ造ランコトヲ希望ニ堪ヘサルナリ。」 すなわち、独逸学協会学校の任務を一般的な基礎教育に限定し、専門教育は他の教育機関に委ねるべきことを示唆しているのである[5][6][7]
  9. ^ 帝大の法科や他の私立法律学校の充実により、専修科における法学教育の存在意義が薄れてきたという事情のみならず、既に普通科から第一高等中学校を経て帝国大学にいたる進路が確保されたという事情が重なり、専修科は存在意義の大半を失った[8]
  10. ^ 1888年(明治21年)年に第1回の卒業生を送り出した専修科は、1893年(明治26年)年には新規入学が停止され、1895年(明治28年)年の第8回の卒業生をもって、その短い歴史に幕を下ろした。卒業生の総数は発足からの10年間で、わずかに164名で終わった[9]
  11. ^ 旧:長州閥の子爵鳥尾小弥太陸軍中将の所有地。

出典

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  1. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、60-61頁
  2. ^ 独逸学協会学校評議員・中村健一郎「専修科十年の概略史」『独逸学協会学校五十年史』、独逸学協会学校同窓会、1933(昭和8)年10月、27頁以下
  3. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、61頁
  4. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、47頁
  5. ^ 山脇玄「祝詞 独逸学協会学校創設ノ目的」、『校友会雑誌』第1号、1892年
  6. ^ 『独協百年』第4号、独協学園百年史編纂委員会、1980年、161頁
  7. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、59頁
  8. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、59 - 60頁
  9. ^ 堅田剛「独逸学協会学校-ある法律学校の歴史-」『獨協法学』第40号、獨協大学法学会、1995年3月、60頁

関連項目

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外部リンク

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