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* 1967年5月 第23代の市長選にて再選。2期目を務める。
* 1967年5月 第23代の市長選にて再選。2期目を務める。
* 1969年 [[西大寺市]](現・[[東区 (岡山市)|東区]])を[[編入合併]]させる。
* 1969年 [[西大寺市]](現・[[東区 (岡山市)|東区]])を[[編入合併]]させる。
* 1971年1~5月 [[一宮町 (岡山県)|一宮町]]・[[津高 (岡山市)|津高町]]・[[高松町 (岡山県)|高松町]]・[[吉備地域|吉備町]]・[[足守町]](以上、現・[[北区 (岡山市)|北区]])・[[上道町]](現・東区)・[[妹尾地域|妹尾町]]・[[福田地域 (岡山市)|福田村]]・[[興除村]](以上、現・[[南区 (岡山市)|南区]])を編入合併させる。
* 1971年1~5月 [[一宮町 (岡山県)|一宮町]]・[[津高 (岡山市)|津高町]]・[[高松町 (岡山県)|高松町]]・[[吉備地域|吉備町]]・[[足守町]](以上、現・[[北区 (岡山市)|北区]])・[[上道町]](現・東区)・[[妹尾町]]・[[福田地域 (岡山市)|福田村]]・[[興除村]](以上、現・[[南区 (岡山市)|南区]])を編入合併させる。
* 1971年5月 第24代の市長選にて再選。3期目を務める。
* 1971年5月 第24代の市長選にて再選。3期目を務める。
* 1975年5月 [[藤田 (岡山市)|藤田村]](現・南区)を編入合併させる。
* 1975年5月 [[藤田 (岡山市)|藤田村]](現・南区)を編入合併させる。

2024年4月6日 (土) 22:54時点における版

岡崎 平夫
おかざき ひらお
生年月日 1909年2月1日
出生地 広島県芦品郡新市町(現・福山市
没年月日 (1993-12-27) 1993年12月27日(84歳没)
出身校 関西大学第二部法学部

第22-26代 岡山市長
当選回数 5回
在任期間 1963年5月1日 - 1983年4月30日
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岡崎 平夫(おかざき ひらお、1909年明治42年)2月1日[1] - 1993年平成5年)12月27日[1])は、日本政治家。第22 - 26代岡山市長で、歴代最多の5期務めた。岡山市名誉市民[2]

経歴・人物

旧制府中中学校(現・広島県立府中高等学校)を第1期生として卒業。同級に江草隆繁浦上豊[3]徳島高等工業学校(現・徳島大学)卒業後、大阪市水道局に就職したが応召ボルネオで終戦を迎えた[3]。帰国を待つ間に大腸ガンを2度手術、1946年病院船で帰国。

戦後の1947年、大阪に水道工事会社を設立後、翌1948年吹田市水道部長に転職。1952年関西大学第二部法学部を卒業[4]岡山市水道局長を経て、1963年岡山市長に初当選、以来連続5期20年在任し、歴代の岡山市長では最も長く市長を務めた。 「緑と花・光と水」という市政運営コンセプトを掲げて、足掛け10年を費やし西川緑道公園・枝川緑道公園を完成させた[5]

また周辺の市町村合併を積極的に進め、就任の間に政令指定都市法定人口の要件である人口50万人を達成させた。

岡山県南政令指定都市構想を参照」

1965年、岡山市ジュニアオーケストラ創設[6]1974年日本下水道協会初代会長、1979年から2期4年間全国市長会会長を務め、今なおその業績への評価は高い[3]村田吉隆は甥にあたる。

略歴

  • 1909年2月 広島県芦品郡新市町(現・福山市)で生まれる。
  • 1963年5月 第22代の市長選にて初当選し、岡山市長に就任。
  • 1967年5月 第23代の市長選にて再選。2期目を務める。
  • 1969年 西大寺市(現・東区)を編入合併させる。
  • 1971年1~5月 一宮町津高町高松町吉備町足守町(以上、現・北区)・上道町(現・東区)・妹尾町福田村興除村(以上、現・南区)を編入合併させる。
  • 1971年5月 第24代の市長選にて再選。3期目を務める。
  • 1975年5月 藤田村(現・南区)を編入合併させる。
  • 1975年5月 第25代の市長選にて再選。4期目を務める。
  • 1979年5月 第26代の市長選にて再選。5期目を務める。
  • 1983年4月 5期20年務めた市長職を退任。
  • 1993年12月 84歳で死去。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク