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2024年2月11日 (日) 01:12時点における版

台湾の民主化(たいわんのみんしゅか)とは、国民党一党独裁に対する台湾民主化運動とその過程。1987年戒厳令解除により達成された。

党外運動中国語版と呼ばれる当時の反体制派の運動と体制側の改良主義者との交渉により達成された。

歴史

前史

1945年10月25日、台湾は日本の敗戦により中華民国となった。解放者としてやってきた外省人と呼ばれる人達と元からいた本省人と対立が深まり二・二八事件が起こる。本省人のインテリ層や学生らは共産主義に傾倒し反共を取り締まるため戒厳令が出された[1]

李登輝による民主化

反体制派最大勢力であった民主進歩党は実力を欠いていたため民主化の役割は体制側である李登輝主導となった。李登輝は党外勢力を党内保守派への圧力として利用した。

李登輝政権の下では総統直接選挙の実施を行った。

李登輝の民主化では被害者への補償は行ったが、加害者の起訴、人権侵害の調査は行われなかった。当時の台湾民主化勢力は「真実と和解の交換」を口にする力が無かった[2]

李登輝に代表されるように本省人のエリートは体制側として編入されたため、民主化弾圧の共犯者であった。そのため二・二八事件白色テロなど暴力以外の解決には向かわなかった[2]

脚注

  1. ^ 名作の背景として描かれてきた、台湾の暗い歴史“二・二八事件”“白色テロ”時代とは?”. ムービーウォーカー. 2023年3月10日閲覧。
  2. ^ a b 『台湾、あるいは孤立無援の島の思想 民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』みすず書房、2021年1月18日、248-247頁。 

関連項目