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== 伝記 ==
== 伝記 ==
* 『[[宋高僧伝]]』巻9「義福伝」・附伝
* 『[[宋高僧伝]]』巻9「義福伝」・附伝
* 『[[景徳傳燈録]]』巻5「吉州青原山行思禅師」
* 『[[景徳伝灯録]]』巻5「吉州青原山行思禅師」
* 『[[祖堂集]]』巻3
* 『[[祖堂集]]』巻3



2023年9月19日 (火) 23:11時点における最新版

青原行思
不詳 - 開元28年12月13日
(不詳 - 741年1月4日
『仏祖正宗道影』(1880年)の木版画像
諡号 弘済禅師
生地 吉州安復県
宗派 禅宗
寺院 青原山浄居寺
六祖慧能
弟子 石頭希遷
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青原行思(せいげん ぎょうし、生年不詳 - 開元28年12月13日741年1月4日))は、中国代の禅僧弘済禅師。俗姓は劉。吉州安復県(『宋高僧伝』では廬陵)の出身。

一説には生誕年を673年としているが、定かではない。

生涯

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子供の頃に寺に入り、暫く修行した後に曹渓(広東省韶関市曲江区)の慧能を尋ねて師事した。

その後、故郷に帰って青原山に浄居寺江西省吉安市青原区)を開いて布教した。

『宋高僧伝』では、大師号を、弘済大師[注釈 1]としている。髪塔は帰真塔といい、会昌の廃仏時に廃毀されたが、後に法嗣の者が重建したとする。

後に弟弟子に当たる石頭希遷が慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗雲門宗法眼宗の三派が発し、臨済宗潙仰宗を派出した同じ慧能門下の南嶽懐譲と共に、後世、禅の二大祖師として並び称されるようになった。

思想

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青原の仏法は、師の慧能の頓悟禅を受け継ぎつつも、相手が納得するまで論じる丁寧さを持ち合わせ、比喩を用いて教えるなど、後世の禅宗三派の思想の発端が見られる。

伝記

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脚注

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注釈

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  1. ^ 北宋の宣祖趙弘殷を避諱して、大師号を済大師と書かれる。

出典

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師:慧能禅宗弟子:石頭希遷