「卜部兼好」の版間の差分
(相違点なし)
|
2023年8月25日 (金) 14:17時点における版
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 弘安6年(1283年)頃? |
死没 | 文和元年/正平7年(1352年)以後? |
別名 | 吉田兼好、兼好法師 |
官位 | 従五位下、左兵衛佐 |
主君 | 後伏見天皇→後二条天皇 |
氏族 | 卜部宿禰嫡流 |
父母 | 父:卜部兼顕 |
兄弟 | 慈遍、兼雄 |
妻 | なし |
子 | なし |
特記 事項 | 現在伝わる兼好の系譜は「吉田兼倶による捏造」とする説がある。 |
吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。卜部兼名の孫。本名は卜部 兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。鎌倉および京都に足跡を残す。旧来、吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏の系譜に連なると考えられてきたが、資料の見直しにより、その根拠となる家系図が吉田兼倶による捏造ではないかという見解がある。吉田神社の系譜に連なるという説に基づき江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)あるいは単に兼好(けんこう)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書では「兼好法師」と表記される。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。私家集に『兼好法師家集』。
経歴
国文学者の風巻景次郎の考証(「家司兼好の社会圏」)による、いわゆる通説を述べる。 卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であるが、南北朝期に成立した『尊卑文脈』にもとづき、父兼顕は治部少尉で吉田神社の神職であったとされる。母や生年は明らかでないが、一般には弘安6年(1283年)ごろの出生と考えられている。
堀川家の家司となり、正安3年(1301年)に後二条天皇が即位すると、天皇の生母である西華門院が堀川具守の娘であったことから六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、30歳前後に出家遁世するが、その詳細な時期や理由は定かでない。『徒然草』に最初に注目したと言われる正徹の歌論書『正徹物語』以来、後宇多法皇の死を悲しんで発心したとする説もあったが、1324年の法皇崩御のはるか前である1313年ないしそれ以前には遁世していたことが文書から確認されており、後宇多院崩御を契機とする説は現在では否定されている。法名としては、俗名を音読した兼好(けんこう)を名乗った。
出家した後の兼好の生活については修学院や比叡山横川などに籠り仏道修行に励む傍ら和歌に精進した様子などが自著から窺われるがあまり明確ではない。鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られ、鎌倉幕府の御家人で後に執権となる金沢貞顕と親しくしている。その時、現在の神奈川県横浜市金沢区の上行寺の境内に庵があったと伝えられる。
南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたとも伝えられる。正圓寺境内東側に「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。
二条為世に和歌を学び、為世門下の和歌四天王の一人にも数えられる。その詠歌は『続千載集』・『続後拾遺集』・『風雅集』に計18首が収められている。また、散文で思索や見聞した出来事を記した『徒然草』は、室町時代中期以降、高く評価され、現代においても文体や内容が文学的に評価されているだけでなく、当時の社会風潮などを知るための貴重な史料ともなっている。
室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊)とも文学を通じて親交があった。また晩年は、当時の足利氏の執事で名高い武家歌人でもある高師直に接近した[1]。正平3年/貞和4年(1349年)末、師直が公卿洞院公賢に対し狩衣着用の規則を尋ねる際に、師直の使者として遣わされている(『園太暦』貞和4年12月26日条)[1]。
没年は、『大日本史料』所引の『諸寺過去帳』収載『法金剛院過去帳』の記載や、17世紀中葉の大和田気求『徒然草古今抄』の記す伝承により、観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされ、また異説として洞院公賢の『園太暦』は観応元年2月15日に兼好が伊賀国名張郡国見山にて死去したとする記事を載せていることからこの日とする説もあったが、これらの日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。
出身について
兼好法師の生年の弘安6年というのは、観応元年を没年とする伝承の一部に享年を68と記すことからの逆算であるが、特に否定する史料が発見されていないことから、恐らくこの頃の生誕とされている。
小川剛生による系譜の検証
小川は、兼好法師が従五位下左兵衛佐にまで昇進したこと自体が怪しく、同時代の史料からすると滝口であり、侍身分であったのではとし、吉田流卜部氏の系譜であるという通説に対して綿密な検証を行い、従来の根拠となっていた系譜は吉田兼倶が、『徒然草』の著者で歌人として著名な兼好法師が祖先であり従五位まで出世したという系譜を捏造したのだという説を主張した。 小川が指摘するポイントは多岐にわたるが、具体的には以下のものがある。
- 六位蔵人であれば兼好が公家日記に登場してもおかしくないが見当たらない
- 天皇の側仕えしているはずの時期に鎌倉に長期滞在している
- 父とされる兼顕、兄弟の兼雄・慈遍は実在の人物であるが、同時代資料を当たるとそういった血縁関係とは言えない
- 兼好を含む卜部氏系図は15世紀末に編纂されたものが竄入された
- 吉田家は様々な偽家系図作成に手を貸した一族である
創作
軍記物『太平記』巻二十一での、艶書(ラブレター)を代筆した話が知られる[1]。室町幕府の執事高師直は、侍従局(じじゅうのつぼね)という女房から塩冶高貞の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従局に取り持ちを頼むが上手くいかない。塩冶高貞の妻の美しさは、高師直の心を捉えて離さないものであった。いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。しかし高貞の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったのだという。ただし、『太平記』の兼好法師・高師直・塩冶判官に関する記述は脚色が多く、そのまま歴史的事実とは考えられない[1]。『太平記』ではこのように和歌に無教養な人物として描かれる師直だが、実際は自作和歌が勅撰集『風雅和歌集』に入撰するほどの武家歌人であったという点でも史実と異なる[2]。
この創作は、江戸時代の「仮名手本忠臣蔵」の元となった『兼好法師物見車』『碁盤太平記』を代表として後世の芝居や小説などの素材に数多く採り上げられ、顔世御前の美貌を高師直に吹き込み、彼女への恋文を代筆する兼好法師の活躍は、兼好の恋の道もわきまえた「粋法師」としてのイメージを形成する上で大きな影響を与えている[3]。
代表歌
脚注
参考文献
- 亀田俊和『高師直 室町新秩序の創造者』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 406〉、2015年。ISBN 978-4642058063。
- 川平敏文『兼好法師の虚像 偽伝の近世史』(平凡社選書、2006年(平成18年) ISBN 4582842267)
- 小川剛生 『兼好法師-徒然草に記されなかった真実』(中公新書2463、中央公論新社、2017年)