「石楯尾神社」の版間の差分
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'''石楯尾神社'''(いわたておのじんじゃ)は、[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[名倉 (相模原市)|名倉]]に鎮座する神社である。「名倉の権現さま」とも呼ばれる。 |
'''石楯尾神社'''(いわたておのじんじゃ)は、[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]][[名倉 (相模原市)|名倉]]に鎮座する神社である。「名倉の権現さま」とも呼ばれる。 |
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境内の中央には御神木として、推定樹齢400年とされる樹高40m、胸高3.7mの二本杉(夫婦杉)がある。この杉と社叢は県指定天然記念物になっている<ref name="fujino1>{{cite web|url=https://info-fujino.com/art/6761.html |title=【歴史】石楯尾神社|publisher=藤野観光協会|date=|accessdate=2023-06-08}}</ref>。 |
境内の中央には御神木として、推定樹齢400年とされる樹高40m、胸高3.7mの二本杉(夫婦杉)がある。この杉と社叢は県指定天然記念物になっている<ref name="fujino1">{{cite web|url=https://info-fujino.com/art/6761.html |title=【歴史】石楯尾神社|publisher=藤野観光協会|date=|accessdate=2023-06-08}}</ref>。 |
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当社は創建当初はいまの場所より西方の[[甲斐国]]寄りの[[国境]](現在の[[山梨県]]と神奈川県の県境)に鎮座していたと伝えられ、延喜式記載の鎮座地である「高座郡」(旧[[愛甲郡]])の圏外に位置する。当時は郡の範囲が北西部の[[相模川]]沿いまで伸びていたとする説もある。 |
当社は創建当初はいまの場所より西方の[[甲斐国]]寄りの[[国境]](現在の[[山梨県]]と神奈川県の県境)に鎮座していたと伝えられ、延喜式記載の鎮座地である「高座郡」(旧[[愛甲郡]])の圏外に位置する。当時は郡の範囲が北西部の[[相模川]]沿いまで伸びていたとする説もある。 |
2023年6月29日 (木) 00:12時点における版
石楯尾神社(いわたておのじんじゃ、或いは いわたておじんじゃ)とは、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、鎮座地については同帳に「高座郡石楯尾神社」とある。
相模川右岸の石楯尾神社(名倉大権現)の所在する津久井地域は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれ、相模川左岸の旧相模原市域と三井、中沢、川尻など旧津久井町北部および旧城山町北部、旧藤野町北部および旧相模湖町北部も含めた相模川左岸(北岸)全体が高座郡に属していた[1] [2]が、室町に発生した野火で高津座峯にあった石楯尾神社の古代文書が焼失して現存していない。
このためいわゆる論社のあるものは高座郡石楯尾神社のみである。この社に関しては神奈川県内に論社が七社も存在する。本項では論社とされる神社全てを併記している。
石楯尾神社 (名倉大権現)
石楯尾神社 (名倉大権現) | |
---|---|
所在地 | 神奈川県相模原市緑区名倉4524 |
位置 | 北緯35度36分51.6秒 東経139度7分54.6秒 / 北緯35.614333度 東経139.131833度 |
主祭神 | 石楯尾大神 |
社格等 | 式内社(小)、郷社(旧社格) |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 神明造 |
別名 | 名倉権現 |
例祭 | 8月26日 |
石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)は、神奈川県相模原市緑区名倉に鎮座する神社である。「名倉の権現さま」とも呼ばれる。
境内の中央には御神木として、推定樹齢400年とされる樹高40m、胸高3.7mの二本杉(夫婦杉)がある。この杉と社叢は県指定天然記念物になっている[3]。
当社は創建当初はいまの場所より西方の甲斐国寄りの国境(現在の山梨県と神奈川県の県境)に鎮座していたと伝えられ、延喜式記載の鎮座地である「高座郡」(旧愛甲郡)の圏外に位置する。当時は郡の範囲が北西部の相模川沿いまで伸びていたとする説もある。
旧来「エボシ岩」が礼拝対象であった。この岩と伝わるものが明治に入るまで当社の東方近辺にあったが、中央本線の鉄道建設工事の折に撤去されてしまった。また、この岩から見て当社は尾っぽの方(相模国の端であり、地形的には丘陵の端でもある)に位置するので、「石楯尾(いわたてお)」と呼ばれるようになったともいわれる。
応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、天安元年(857年)、従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録に記載されている国史所載社である。延喜式では式内小社に列した延喜式内社であるが三増合戦の禍を受け、永禄12年(1569年)社殿全部が火災にあい、古記録まで焼失した。
現在の社殿は享保9年(1724年)に建築されたものである。明治6年(1873年)、社格制定に際し郷社となる。1923年(大正12年)、神奈川県告示第26号により神饌幣帛料供進指定神社に指定され、1948年(昭和23年)には神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定された。
神社明細帳は元亀元年(1570年)に消失したとされ由緒がわからなくなっていたが、1942年(昭和17年)に神社明細帳の訂正が許可され、正式に式内社として国家から認められた。また戦後には、古文書によっても証明されたとされる。
桂川南岸に鎮座していることから、式内社調査報告では地形的に当社が式内社である可能性が高いとしている。また、文化5年(1808年)と翌年に神祇官から献上された幣帛が今に残っており、実際の証明物としても論社の中で最古のものである。
祭神
祭礼
境内社
交通
備考
御朱印などを頂く際には、社務所に人がいない場合もあるので事前に問い合わせ等をした方がよい。
参考文献
- 石楯尾神社(相模原市緑区名倉)境内掲示板
参照
外部リンク
- 石楯尾神社(神奈川県神社庁)
石楯尾神社(佐野川の御石杜)
石楯尾神社 (佐野川の御石杜) | |
---|---|
所在地 | 神奈川県相模原市緑区佐野川3448 |
位置 | 北緯35度39分23.1秒 東経139度7分10.5秒 / 北緯35.656417度 東経139.119583度 |
主祭神 | 神日本磐余彦尊 |
社格等 | 式内社(小)、村社(旧社格) |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 八幡造 |
別名 | 御石杜 |
例祭 | 8月23日 |
石楯尾神社(いわたておじんじゃ)は、神奈川県相模原市緑区佐野川に鎮座する神社である。佐野川の御石杜(おいしのもり)と呼ばれる。
景行天皇庚戌40年(110年)、日本武尊東征の帰りのこと。軍刀利神社 (上野原市)には神実(かむざね)として草薙の剣、石楯尾神社には天磐楯(あまのいわたて)を東国の安定した治世のため「三国山」に鎮め神武天皇を祀っり今日に至ったのである。武尊勅で石楯と呼ぶ。この倉を高座といい、高座石楯尾神社と呼ばれたのである。このように石楯尾神社はかっては生藤山の東、高津座(つつぐら)峯にあって奥の宮と呼ばれ、ふもとの蚕山(こやま、931m)[1][2]には前社がおかれていたのである[3]。
現在祭られている坂上石楯は、高座郡の県主で当地の住人であった。第47代淳仁天皇の天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)のとき、乱を鎮めた功によって、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の保護者である。藤木姫は石村石楯の妻である。
生藤山の東、高津座(つつぐら)峯にあって奥の宮は、400年以上前の室町時代の文禄年間(1593年〜1596年)に野火の災に罹る。
本来は巨石を祀っていたという。江戸時代には武甲相三州から多くの民衆がお参りし、幼児の疳虫除けの祈祷を受けたという。[4]
1871年(明治4年)、2023年現在の本社を以て石楯尾神社と称し、蚕山にあった社を廃した[5]。
幣殿、拝殿は1937年(昭和12年)に改築されたが本殿は室町時代の建築様式をよく伝えている。本殿棟札には「天保7年(1836年)11月氏子中、調写、浄善石船、謹記」とある。神楽殿は弘化年間(1854年)に建てられたものである。ずらりと境内社が並ぶも、伝承は伝わっていない。
祭神
県指定文化財
重要文化財
- 本殿 (指定日:1996年2月13日
- 桁行3メートルの一間社切妻造の大規模社殿である。向拝殿と母屋背面桁の高さをそろえて全体を切妻屋根で覆ってある。蟇股(かえるまた)や絵様などから16世紀末頃の建築と推定されている[6]。
交通
登山道
当社の前の「石楯尾神社前」バス停は、日本武尊の東征ゆかりの地の三国山、生藤山への登山口になっている。途中に甘草水(飲用できない)と言われる泉がある[8]。 この登山コースは関東百名山(2019年)の生藤山(990m)に気軽にハイキングできることもあって、上岩から尾根合流点までの登山道の拡幅工事と、尾根道の間伐伐採工事が進められている(撮影当時)。なお、山頂の道標では「上岩」と表記されている[9]。 神奈川県の最北端に位置する生藤山は関東ふれあいの道“富士見のみち”登山道と呼ばれる日帰り登山ルートに所在する。高尾駅から〈美32〉系統「陣馬高原下」行バス[10](西東京バス恩方営業所が運行)。「陣馬高原下」から、和田峠、醍醐丸、連行峰を経て、生藤山[11]。そして宮内庁が管理していた熊倉山、浅間峠、「上川乗」[12]に至る。距離14.7km、所要時間5時間35分である[11]。
石楯尾神社前 | 車道の分岐 | 佐野川峠で鎌沢 尾根道に合流 |
甘草水 (かんぞうすい) |
三国山 |
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撮影2023年5月
備考
現在、相模原市緑区与瀬にある與瀬神社[13]が当社の管理を兼務している(御朱印等の問い合わせもこちらへ)。
関連項目
参考文献
- 石楯尾神社(相模原市緑区佐野川)境内掲示板
参照
- ^ 国土地理院の地図
- ^ 守屋二郎「山梨東部の山 登山詳細図(東編)」
- ^ (1985年(昭和60年))「新編相模国風土記稿巻之119 村里部 津久井縣巻之4」『大日本地誌大系23 新編相模国風土記稿 第5巻』pp.353-356.雄山閣
- ^ <---「名倉の権現さま」石楯尾神社の永禄12年(1569年)三増合戦の禍が、入り混じってしまっている。--->永禄12年(1569年)に武田信玄が小田原を攻めたとき焼かれたが、その後、再建されて今日に至っている。
- ^ (1988年(昭和63年))『大日本國誌 相模国 第3巻』pp.308-309.ゆまに書房
- ^ “石楯尾神社本殿-県重要文化財”. 相模原市役所 (2021年6月25日). 2023年6月11日閲覧。
- ^ “上野原駅発井戸行バス時刻表”. 富士急山梨バス (2023年5月17日). 2023年5月17日閲覧。
- ^ “【歴史】甘草水”. 藤野観光協会. 2023年6月8日閲覧。
- ^ “生藤山・三国山”. 藤野観光協会 (2018-0108). 2023年6月9日閲覧。
- ^ “高尾駅北口発陣馬高原下行バス時刻表”. NAVITIME (2023年5月17日). 2023年5月17日閲覧。
- ^ a b “01.湖のみち”. 環境庁 (2018-0108). 2023年5月26日閲覧。
- ^ “上川乗発武蔵五日市駅行バス時刻表”. NAVITIME (2023年5月17日). 2023年5月27日閲覧。
- ^ 與瀬神社(神奈川県神社庁)
外部リンク
- 石楯尾神社(神奈川県神社庁)
石楯尾神社 (相模原市南区)
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所在地
- 神奈川県相模原市南区磯部2137
外部リンク
- 石楯尾神社(神奈川県神社庁)
-
本殿
-
拝殿
-
参道
-
鳥居
諏訪明神(相模原市緑区大島)
- 「諏訪明神 (相模原市)」を参照
諏訪明神 (座間市入谷)
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所在地
- 神奈川県座間市入谷1-1568
外部リンク
諏訪神社(大和市)
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所在地
外部リンク
- 諏訪神社(神奈川県神社庁)
皇大神宮 (藤沢市鵠沼)
石楯尾神社(境内末社)
神奈川県藤沢市鵠沼に鎮座する皇大神宮の境内末社。皇大神宮の社伝によると、現皇大神宮の建立以前に石楯尾神社があったとされる[1]。
祭神
- 石楯尾大神
祭礼
- 5月17日 - 石楯尾神社例祭
参考文献
- 皇大神宮(藤沢市)境内掲示板
脚注
関連項目
外部リンク
- 石楯尾神社の謎(鵠沼を巡る千一話)