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「スペンサー・パーシヴァル」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2011年11月|ソートキー=人1812年没}}
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'''スペンサー・パーシヴァル'''({{lang|en|Spencer Perceval}}, [[1762年]][[11月1日]] - [[1812年]][[5月11日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]。イギリス史上唯一の暗殺された[[イギリスの首相|首相]]である逆に暗殺したベンガムもイギリスの首相を暗殺した唯一の人間と語られている<ref>{{Cite web2|language=ja|url=https://sputniknews.jp/20181124/5622164.html|title=あの19世紀の英国殺人者の顔が再現される【写真】|publisher=Sputnik|date=2018-11-24|accessdate=2020-10-07}}</ref>
'''スペンサー・パーシヴァル'''[[閣下]]({{lang|en|Hon. Spencer Perceval}} {{post-nominals|country=GBR|KC}}, [[1762年]][[11月1日]] - [[1812年]][[5月11日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]。[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員(在任:1796年 – 1812年)、{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}}(在任:1801年 – 1802年)、[[法務長官 (イギリス)|法務長官]](在任:1802年 – 1806年)、[[財務大臣 (イギス)|財務大臣]](在任:1807年 – 1812年)、[[イギリスの首相|首相]](在任:1809年 – 1812年)歴任した<ref name="DNB" />。

弁護士と庶民院議員としての演説で名声を得た後、法務次官と法務長官を経て、[[第2次ポートランド公爵内閣]]で財務大臣に就任した<ref name="DNB" />。財政政策に目新しいところはなく、議会で批判が少ない程度の内容だったが<ref name="ODNB" />、機転が利き、人気を得ていたため、小ピット派が分裂していた最中の1809年にポートランド公爵が辞任したときに組閣の大命が下された<ref name="DNB" />。首相在任中は{{仮リンク|ワルヘレン戦役|en|Walcheren Campaign|label=ワルヘレン遠征}}の失敗、摂政法問題、{{仮リンク|枢密院勅令 (1807年)|en|Orders in Council (1807)|label=枢密院勅令}}による貿易不況といった問題を乗り越え、内閣の基盤を固めたが、その矢先に暗殺された<ref name="DNB" />。イギリス史上唯一の暗殺された首相である<ref name="GovUK" />。

[[福音派]]を支持しており、これが宗教政策への態度に影響を与えた<ref name="ODNB" />。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[File:John Perceval, 2nd Earl of Egmont by Thomas Hudson.jpg|thumb|right|父の{{仮リンク|ジョン・パーシヴァル (第2代エグモント伯爵)|en|John Perceval, 2nd Earl of Egmont|label=第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル}}。[[トマス・ハドソン (画家)|トマス・ハドソン]]画、1759年。]]
[[アイルランド貴族]]の第2代エグモント伯ジョン・パーシヴァルの七男として生まれた。パーシヴァル家は弁護士や政治家、軍人を多く輩出した一族である<ref>{{Cite journal|language=ja|title=特許のフェア・ユースと著作権のフェア・ユース(24)|author=松川実|journal=青山法学論集|volume=58|issue=2|date=2016年9月|issn=0518-1208|ncid=AN00009024|doi=10.34321/19520|doi-access=free}}</ref>。父は[[プリンス・オブ・ウェールズ]]、[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]の側近であったが、スペンサーが10歳の時に亡くなった。[[ハロウスクール]]から[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]へ進んだ。法廷弁護士として働いた後、1796年に議員となった。
[[File:William Lort Mansel by GH Harlow.jpg|thumb|right|トリニティ・カレッジでの指導者{{仮リンク|ウィリアム・ロート・マンセル|en|William Lort Mansel}}、1815年ごろ。]]
[[アイルランド貴族]]の{{仮リンク|ジョン・パーシヴァル (第2代エグモント伯爵)|en|John Perceval, 2nd Earl of Egmont|label=第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル}}(1711年2月24日 – 1770年12月20日)と2人目の妻[[キャサリン・パーシヴァル (初代アーデン女男爵)|初代アーデン女男爵キャサリン・パーシヴァル]](1731年6月4日 – 1784年6月11日、[[チャールズ・コンプトン (1698-1755)|チャールズ・コンプトン閣下]]の娘、[[ジョージ・コンプトン (第4代ノーサンプトン伯爵)|第4代ノーサンプトン伯爵ジョージ・コンプトン]]の孫娘<ref name="Cokayne">{{Cite book2|language=en|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. Arthur|year=1926|title=The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat)|volume=5|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press|page=30|url=https://archive.org/details/CokayneG.E.TheCompletePeerageSecondEditionVolume5EAGO/page/n19/}}</ref>)の間の次男(異母兄を含めると七男)として、1762年11月4日に[[ロンドン]]のオードリー・スクエア({{lang|en|Audley Square}})にある父の邸宅で生まれた<ref name="Burke1999">{{Cite book2|language=en|editor-last=Mosley|editor-first=Charles|editor-link=チャールズ・モズレー (系譜学者)|title=Burke’s Peerage and Baronetage|edition=106th|year=1999|location=London|publisher=Burke’s Peerage Limited|isbn=2-940085-02-1|volume=I|pages=957–958}}</ref><ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Perceval, Spencer|volume=44|pages=376–382|last=Hamilton|first=John Andrew|author-link=ジョン・ハミルトン (初代サムナー子爵)}}</ref>。パーシヴァル家は弁護士や政治家、軍人を多く輩出した一族であり<ref>{{Cite journal|language=ja|title=特許のフェア・ユースと著作権のフェア・ユース(24)|author=松川実|journal=青山法学論集|volume=58|issue=2|date=2016年9月|issn=0518-1208|ncid=AN00009024|doi=10.34321/19520|doi-access=free}}</ref>、父も[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]の側近であったが、スペンサーが10歳のときに亡くなった<ref>{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/perceval-john-1711-70|title=PERCEVAL, John, 2nd Earl of Egmont [I] (1711-70).|last=Namier|first=Sir Lewis|author-link=ルイス・バーンスタイン・ネイミア|access-date=20 August 2023}}</ref>。貴族の次男以降で社会階級と比べて貧乏であり、父が政治家としてそれほど高評価ではなかった上、早くに亡くなったため、首相のような高位の官職の候補者とは考えられていなかった<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/perceval-hon-spencer-1762-1812|title=PERCEVAL, Hon. Spencer (1762-1812), of Elm Grove, Ealing, Mdx.|last=Thorne|first=R. G.|access-date=20 August 2023}}</ref>。


幼少期を[[チャールトン]]で過ごした後<ref name="DNB" />、1774年から1779年まで[[ハロウスクール]]で教育を受けた<ref name="HOP" />。ハロウスクールでは学内の賞をとり、「漫然たる読書」を避け、教科書を正確に理解したと教師から評価された<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|id=21916|title=Perceval, Spencer|last=Jupp|first=P. J.|date=21 May 2009|orig-date=23 September 2004}}</ref>。1780年1月14日に[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学、1782年に[[文学修士 (オックスフォード・ケンブリッジ・ダブリン)|M.A.]]の学位を修得した<ref name="ACAD">{{Acad|id=PRCL780S|name=Perceval, the Hon. Spencer.}}</ref>。トリニティ・カレッジでは{{仮リンク|ウィリアム・ロート・マンセル|en|William Lort Mansel}}(のち{{仮リンク|ブリストル主教|en|Bishop of Bristol}})とトマス・マシアス({{lang|en|Thomas Mathias}})が指導にあたり、パーシヴァルの勉学心が評価された<ref name="ODNB" />。
=== 政治家として ===
自身の[[イングランド国教会]][[福音主義]]運動への信仰から、[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]の推し進めた[[カトリック解放]]法案には賛成していなかった。彼が大蔵大臣を務めた頃、[[ウィリアム・ウィルバーフォース]]の提出した[[奴隷貿易]]廃止案が可決された。また、[[ナポレオン・ボナパルト]]による[[大陸封鎖令|大陸封鎖]]で外国貿易が損害を被っており、1811年には[[ラッダイト運動]]が巻き起こった。


パーシヴァルは同時代の政治家では珍しく[[キリスト教]]の[[福音派]]を支持しており<ref name="GovUK" />、『[[オックスフォード英国人名事典]]』ではその理由を学生時代の友人に帰した<ref name="ODNB" />。たとえば、ハロウスクールで知り合い、生涯の友人となった{{仮リンク|ダドリー・ライダー (初代ハロービー伯爵)|en|Dudley Ryder, 1st Earl of Harrowby|label=ダドリー・ライダー}}(のち第2代[[ハロービー男爵]]、初代[[ハロービー伯爵]])も福音派の1人だった<ref name="ODNB" />。ケンブリッジ大学では数少ないが影響力のある福音派の人物と親しく、そのうちの1人が{{仮リンク|アイザック・ミルナー|en|Isaac Milner}}<ref name="ODNB" />(1785年に[[ウィリアム・ウィルバーフォース]]を福音派に転向させたことで知られる<ref>{{Cite ODNB|id=18788|title=Milner, Isaac|date=23 September 2004|last=Knox|first=Kevin C.}}</ref>)だった。[[千年王国]]説を信じたとされ、1800年には[[フランス革命]]がカトリックへの罰として神から与えられ、世界が[[1926年]]に終わるとの考えを披露した<ref name="HOP" />。
[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が回復する見込みのない精神障害に陥ると、パーシヴァルはこれをいかに切り抜けるかを問題とした。[[摂政王太子]]をたびたび務めてきた[[プリンス・オブ・ウェールズ]]、ジョージ(のちの[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])と彼は対立関係にあった。ジョージが王室費の増額を求めるたびはねつけてきたのを根に持たれており、ジョージは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]好みでパーシヴァルを罷免する気であった。しかし、ジョージの側近たちがパーシヴァル罷免を思いとどまらせたため、王太子と首相は緊張関係にあった。

=== 弁護士として ===
[[File:Sir Samuel Romilly.jpg|thumb|right|生涯の友人{{仮リンク|サミュエル・ロミリー|en|Samuel Romilly}}。[[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画、1806年ごろから1810年ごろまでの間。]]
貴族の次男以降で収入が少なかったため<ref name="DNB" />、1782年12月16日に[[リンカーン法曹院]]に入学、1786年に弁護士資格免許を取得した<ref name="ACAD" />。{{仮リンク|ミッドランド・ディストリクト|en|Midlands|label=ミッドランド}}[[巡回裁判所]]で弁護士業を務め、文書偽造の案件での演説で名声を得てミッドランド巡回裁判所における一流な弁護士とされた<ref name="DNB" /><ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Perceval, Spencer|volume=21|page=133}}</ref>。弁護士業でパーシヴァルと知り合い、生涯の友人となった{{仮リンク|サミュエル・ロミリー|en|Samuel Romilly}}によれば、この時期のパーシヴァルは「学識が少なく、多くの問題に強い偏見を持っていたが、気性のよさ、人を引き付ける振る舞い、会話の活発さで知り合いを大いに喜ばせた」という<ref name="DNB" />。[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家{{仮リンク|ウィリアム・ウィンダム (1750-1810)|en|William Windham|label=ウィリアム・ウィンダム}}は1786年にパーシヴァルに出会い、傑出したキャリアを重ねるだろうと予想した<ref name="DNB" />。

1790年に議会が解散されると、1791年に当時進行中だった{{仮リンク|ウォーレン・ヘースティングズの弾劾裁判|en|Impeachment of Warren Hastings}}に関するパンフレットを、1792年に[[急進主義]]への対抗策に関するパンフレットを匿名で出版した<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。パンフレットが[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]の注目を浴びたことでパーシヴァルは1792年の[[トマス・ペイン]]裁判、1794年の{{仮リンク|ジョン・ホーン・トーク|en|John Horne Tooke}}の{{仮リンク|1794年大逆罪裁判|en|1794 Treason Trials|label=大逆罪裁判}}で政府側の検事団の1人に選ばれた{{Refnest|group=注釈|ペインもホーン・トークも影響力のある急進主義者だった<ref name="ODNB" />。}}<ref name="DNB" />。また兄が1791年に一度申請して失敗したが<ref name="HOP" />、1794年に兄の影響力{{Refnest|group=注釈|name=Arden|同母兄にあたる{{仮リンク|チャールズ・パーシヴァル (第2代アーデン男爵)|en|Charles Perceval, 2nd Baron Arden|label=第2代アーデン男爵チャールズ・ジョージ・パーシヴァル}}は[[第1次小ピット内閣]]で下級海軍卿({{lang|en|Lord of Admiralty}})を務めていた<ref name="ODNB" />。}}により{{仮リンク|海軍卿 (イギリス)|en|First Lord of the Admiralty|label=海軍卿}}の{{仮リンク|ジョン・ピット (第2代チャタム伯爵)|en|John Pitt, 2nd Earl of Chatham|label=第2代チャタム伯爵ジョン・ピット}}から海軍本部委員会の顧問弁護士への任命を受けた<ref name="DNB" />。

1795年末に小ピットより{{仮リンク|アイルランド主席政務官|en|Chief Secretary for Ireland}}への就任を打診された<ref name="DNB" /><ref name="HOP" />。パーシヴァルは1791年に兄の影響力<ref group="注釈" name="Arden" />により年収119ポンド相当の[[閑職]]を得ており、1795年には弁護士業も含めて年収1,000ポンドだったが、このときすでに子女を5人ももうけており、家計の負担が重かったため、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の{{仮リンク|ジョン・プラット (初代カムデン侯爵)|en|John Pratt, 1st Marquess Camden|label=第2代カムデン伯爵ジョン・プラット}}と海軍卿の[[ジョージ・スペンサー (第2代スペンサー伯爵)|第2代スペンサー伯爵ジョージ・スペンサー]]は将来の閑職任命をちらつかせてパーシヴァルに就任を許諾させようとした<ref name="HOP" /><ref name="ODNB" />。しかしパーシヴァルは弁護士業で金を稼ぐことを優先し、1796年1月2日に就任を辞退した<ref name="DNB" />。

1796年2月4日に{{仮リンク|勅選弁護士|en|King's Counsel}}に選ばれた<ref name="HOP" />。[[大法官]]の{{仮リンク|アレグザンダー・ウェッダーバーン (初代ロスリン伯爵)|en|Alexander Wedderburn, 1st Earl of Rosslyn|label=初代ラフバラ男爵アレグザンダー・ウェッダーバーン}}は勅選弁護士の人数がすでに足りていると考えたが、パーシヴァルの才能を高く評価して人数を増やしたという<ref name="DNB" />。2月26日にはリンカーン法曹院の{{仮リンク|評議員 (法曹院)|en|Bencher|label=評議員}}に選出された<ref name="ODNB" /><ref name="Gray14">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=14|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。

1796年以降は政治家としての活動も加わるが、弁護士業からの収入は上昇の一途をたどり、1799年には1,504ポンド、1800年には1,807ポンドになり、最終的には毎年4、5千ポンドの収入をもたらすに至った<ref name="DNB" />(『英国議会史』では1804年には10,000ポンド近くの収入だったとしている<ref name="HOP" />)。また政界で多忙になったため、1801年の法務次官就任を機に{{仮リンク|王座裁判所 (イングランド)|en|Court of King's Bench (England)|label=王座裁判所}}での仕事を受けなくなり、{{仮リンク|大法官府裁判所|en|Court of Chancery}}に絞った<ref name="DNB" />。このときに費用を倍にしたことで収入が増え、家計の問題が一旦は解消された<ref name="HOP" />。大法官府裁判所での仕事では相手の代理人をロミリーが務めることが多かったという<ref name="DNB" />。

1807年に財務大臣に就任すると、パーシヴァルはしぶしぶ弁護士業を諦めることとなった<ref name="GovUK">{{Cite web2|language=en|url=https://history.blog.gov.uk/2015/10/28/spencer-perceval/|title=Spencer Perceval|last=Burns|first=Arthur|author-link=アーサー・バーンズ (歴史学者)|date=28 October 2015|website=History of government - gov.uk|access-date=20 August 2023}}</ref>。

=== 政界入り ===
1796年4月に{{仮リンク|ノーサンプトン選挙区|en|Northampton (UK Parliament constituency)}}選出の現職[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員だった[[チャールズ・コンプトン (初代ノーサンプトン侯爵)|コンプトン卿チャールズ・コンプトン]](のち第9代ノーサンプトン伯爵、初代ノーサンプトン侯爵)が爵位継承で[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]に移籍したとき、息子[[スペンサー・コンプトン (第2代ノーサンプトン侯)|スペンサー]]がまだ子供だったため、議席はいとこにあたるスペンサー・パーシヴァルに譲られた<ref name="HOPNorthampton">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/constituencies/northampton|title=Northampton|last=Thorne|first=R. G.|access-date=20 August 2023}}</ref>。直後の[[1796年イギリス総選挙|1796年5月の総選挙]]では選挙戦があったものの、パーシヴァルは当選確実で、残りの候補2名が2議席目を争う構図となり、実際にもパーシヴァルが720票でトップ当選した<ref name="HOPNorthampton" />。その後、ノーサンプトン選挙区では20年ほど選挙戦がなく、パーシヴァルは1812年に死去するまで[[1802年イギリス総選挙|1802年]]、[[1806年イギリス総選挙|1806年]]、[[1807年イギリス総選挙|1807年]]の総選挙において無投票で再選した<ref name="HOPNorthampton" />。

議会では1797年2月に[[クエーカー]]解放法案に反対票を投じた後<ref name="HOP" />、1797年5月に初演説し、刑法で陸軍・海軍内部での不満扇動を違法とする小ピットの提案に賛成した<ref name="DNB" />。パーシヴァルは[[フランス革命戦争]]の遂行を強く支持し、小ピットの内政における強圧的な政策も支持したが、演説は気取った態度ながら簡潔で、小ピット、[[リチャード・ブリンズリー・シェリダン]]、[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]など与野党の重鎮から称えられた<ref name="DNB" />。『{{仮リンク|英国議会史|en|The History of Parliament}}』によれば、パーシヴァルの演説の草稿は現存しており、1797年5月の日付が記載されているものは[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]の[[1795年反逆法|反逆法]]廃止法案への攻撃など複数存在するが、実際に5月に演説があったと報じられたのは前述の1件だけだった<ref name="HOP" />。また1798年1月4日の所得税法案審議において、フォックスと[[フランシス・バーデット|第5代準男爵サー・フランシス・バーデット]]が[[フランス革命戦争]]をめぐり政府を批判したとき、フォックス率いるホイッグ党の不登院戦略と、国家が危機に陥っているときに改革を要求することを批判した<ref name="ODNB" />。この演説は同時代では小ピットと[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (初代グランヴィル伯爵)|グランヴィル・ルーソン=ゴア]](のち初代[[グランヴィル伯爵]])に賞賛され、後世では『オックスフォード英国人名事典』が「実質的には初演説」との評価を、『英国議会史』が「この演説こそパーシヴァルの名声を打ち立てた」との評価を下した<ref name="ODNB" /><ref name="HOP" />。このようにパーシヴァルは議会活動を経て影響力が増し、1798年にはトリニティ・カレッジでの師だった{{仮リンク|ウィリアム・ロート・マンセル|en|William Lort Mansel}}をトリニティ・カレッジ学寮長につけることに成功、自身も同年8月に{{仮リンク|軍需局総監|en|Master-General of the Ordnance}}[[チャールズ・コーンウォリス (初代コーンウォリス侯爵)|初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリス]]の後押しを受けて軍需局付き弁護士(年収300ポンドの官職<ref name="HOP" />)に任命され<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />、1799年に[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット王妃]]の法務次官への任命を受けた<ref name="GovUK" />。

演説の回数も徐々に増え、所得税法案(1798年12月と1800年4月)、{{仮リンク|イギリスとロシアによるホラント侵攻|en|Anglo-Russian invasion of Holland|label=ホラント戦役}}と[[エジプト・シリア戦役|エジプト戦役]]での戦略(1800年2月と1800年11月)、[[アイルランド王国]]と[[グレートブリテン王国]]の[[合同法 (1800年)|合同法]](1799年2月)を支持した<ref name="ODNB" /><ref name="HOP" />。ただし、合同法に関しては支持を与えつつもカトリック問題の解決策にはならないと判断している<ref name="HOP" />。

=== 法務次官、法務長官として ===
==== アディントン内閣期 ====
[[File:Henry Addington, 1st Viscount Sidmouth.jpg|thumb|right|1801年から1804年までの首相[[ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)|ヘンリー・アディントン]]。{{仮リンク|ウィリアム・ビーチー|en|William Beechey}}画、1803年ごろ。]]
1801年にカトリック解放問題をめぐり小ピットが辞任したが、パーシヴァルは小ピットとともに辞任することを選ばなかった<ref name="ODNB" />。小ピットの後任として組閣した[[ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)|ヘンリー・アディントン]]は議会弁論で内閣への支持が不足していると感じ、1801年2月に{{仮リンク|エドワード・ロウ (初代エレンバラ男爵)|en|Edward Law, 1st Baron Ellenborough|label=サー・エドワード・ロウ}}を[[法務長官 (イギリス)|法務長官]]に、パーシヴァルを{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}}に任命した<ref name="DNB" /><ref name="HOP" />。このような任命では同時に[[騎士爵]]に叙することが伝統になっていたが、パーシヴァルは伯爵の息子だったため騎士爵への叙爵を辞退した<ref name="DNB" />。この時期には小ピットの後継者と目される人物の1人(ほかには[[ジョージ・カニング]]、[[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]、[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|ホークスベリー男爵]]がいた)に数えられた<ref name="ODNB" />。

1802年初にロウが{{仮リンク|王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}に就任すると、パーシヴァルは同年4月14日に法務長官に昇進した<ref name="DNB" /><ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.parliament.uk/about/living-heritage/building/palace/estatehistory/from-the-parliamentary-collections/spencer-perceval/letters-patent-and-writ-spencer-perceval/|title=Letters Patent and writ relating to Spencer Perceval|website=UK Parliament|access-date=20 August 2023}}</ref>。法務長官としては{{仮リンク|エドワード・デスパード|en|Edward Despard}}大佐{{Refnest|group=注釈|デスパードは[[ロンドン塔]]と[[イングランド銀行]]への襲撃、およびジョージ3世暗殺を計画したとして、のちに有罪判決を受けて処刑された<ref name="GovUK" />。}}を[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で、ジョン・ぺルティア({{lang|en|John Peltier}})を[[ナポレオン・ボナパルト]]への[[名誉毀損罪]]で起訴し、いずれも1803年に有罪判決となった<ref name="DNB" />。1804年5月24日には[[ウィリアム・コベット]]の『週刊政治録』({{lang|en|''Political Register''}})における文章(作者{{lang|en|Juverna}})を[[フィリップ・ヨーク (第3代ハードウィック伯爵)|ハードウィック伯爵]]([[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]])と[[ジョン・フリーマン=ミットフォード (初代リーズデイル男爵)|リーズデイル男爵]]({{仮リンク|アイルランド大法官|en|Lord Chancellor of Ireland}})への名誉毀損としてコベットを起訴し、{{lang|en|Juverna}}が裁判官{{仮リンク|ロバート・ジョンソン (1745-1833)|en|Robert Johnson (1745–1833)|label=ロバート・ジョンソン}}であると判明すると11月23日にジョンソンも起訴した<ref name="DNB" />。コベットもジョンソンものちに有罪となった<ref name="DNB" />。同年に王座裁判所首席裁判官への就任と叙爵を打診されたが辞退している<ref name="DNB" />。

[[ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ヴォークス男爵)|ヘンリー・ブルーム]]の評価するところでは、[[アディントン内閣]]期(1801年 – 1804年)のパーシヴァルはほぼ一人の力で庶民院における小ピット、フォックス、{{仮リンク|ウィリアム・ウィンダム (1750-1810)|en|William Windham|label=ウィリアム・ウィンダム}}とそれぞれの派閥からの政権批判を守り切ったという<ref name="DNB" />。実際にアディントン内閣末期の1804年4月23日ではフォックスが長演説で内閣を批判した後、国防委員会の設立を動議したが、パーシヴァルの演説の結果、小ピット、カニング、フォックス、ウィルバーフォース、シェリダン、ウィンダム、{{仮リンク|ジョージ・ローズ (政治家)|en|George Rose (politician)|label=ジョージ・ローズ}}、{{仮リンク|ロバート・ダンダス (第2代メルヴィル子爵)|en|Robert Dundas, 2nd Viscount Melville|label=ロバート・ダンダス閣下}}といった有力議員が全員賛成票を投じたにもかかわらず、動議が賛成204・反対256で否決された<ref name="Gray53-54">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|pages=53–54|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。ただしパーシヴァル自身はアディントン内閣期に成立した[[アミアンの和約]]に反対しており、[[マルタ]]と[[ケープ植民地]]を軍事基地として保有すべきと考えた<ref name="HOP" />。

==== 第2次小ピット内閣期 ====
小ピットは首相に返り咲くと、まずフォックスとの連立内閣交渉に入ったが、国王が連立内閣を拒否したため、ピットはパーシヴァルの支持を確保しようとした<ref name="Gray53-54" />。パーシヴァルは辞退して法務長官を退任するつもりでいたが、パーシヴァルの友人{{仮リンク|ダドリー・ライダー (初代ハロービー伯爵)|en|Dudley Ryder, 1st Earl of Harrowby|label=第2代ハロービー男爵ダドリー・ライダー}}が説得を試み、パーシヴァルは[[カトリック解放]]に反対する自由を留保して留任に同意した<ref name="DNB" />。

小ピット内閣期では現代の[[労働組合]]の雛形といえる団体への起訴を、政府が労使問題で常に雇用者側に立つという確約をすべきでないとして拒否した<ref name="DNB" />。議会では頻繁に演説し、[[児童労働]]規制と[[ウィリアム・ウィルバーフォース]]の[[奴隷貿易]]廃止運動を支持、議会改革に反対した<ref name="ODNB" /><ref name="Gray53-54" />。

=== グレンヴィル内閣期 ===
1806年1月に小ピットが死去すると、パーシヴァルは法務長官を辞任した<ref name="DNB" />。[[ウィリアム・グレンヴィル (初代グレンヴィル男爵)|ウィリアム・グレンヴィル]]率いる{{仮リンク|挙国人材内閣|en|Ministry of All the Talents}}には野党の立場をとったが、グレンヴィルの組閣時にはグレンヴィルの持つ[[財務省 (イギリス)|財務省]]監査役という官職を信託(代理人)に預けることでグレンヴィル組閣への障害を取り払った<ref name="DNB" />。

1806年の会期では野党側が長演説の戦術をとり、パーシヴァルも(『英国議会史』が集計したところでは)約70回演説し、{{仮リンク|チェルシー王立病院|en|Royal Hospital Chelsea|label=チェルシー病院}}法案や{{仮リンク|ウィリアム・ウィンダム (1750-1810)|en|William Windham|label=ウィリアム・ウィンダム}}の軍制改革を批判した<ref name="HOP" />。同年7月に{{仮リンク|ウィリアム・ラウザー (初代ロンズデール伯爵)|en|William Lowther, 1st Earl of Lonsdale|label=第2代ラウザー子爵ウィリアム・ラウザー}}(のち初代[[ロンズデール伯爵]])の邸宅で行われた野党会合ではパーシヴァルが不在ながら将来の内閣における[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]と[[庶民院院内総務]]に内定され、カニングとカースルレー子爵も同意した<ref name="HOP" />。このとき、ホークスベリー男爵と[[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサースト]]はパーシヴァルが首相に就任しても反対しないと表明するほどだった<ref name="HOP" />。

9月にフォックスが死去すると、グレンヴィルはパーシヴァルに入閣を要請したが、拒否された<ref name="DNB" />。パーシヴァルは野党から自分1人だけ入閣することはない(野党から広く入閣させるべき)と考え、入閣した場合の役職名すら聞かなかったという<ref name="HOP" />。その後、1807年1月5日に講和交渉の失敗を演説で批判し<ref name="HOP" />、3月5日の演説で内閣の[[カトリック解放]]推進を批判して、内閣崩壊の一因になったが<ref name="DNB" />、パーシヴァル自身は倒閣するつもりがなく、私的な助言では内閣に国王との妥協を促した<ref name="HOP" />。

=== 財務大臣として ===
==== 任命をめぐる交渉 ====
[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ポートランド公爵]]を首班とする[[第2次ポートランド公爵内閣]]が成立すると、パーシヴァルの入閣は当然と目されたが、どの官職に就くかは不明確だった<ref name="DNB" />。『オックスフォード英国人名事典』によれば、小ピットの後継者と目された4人のうち、国王と同じぐらいカトリック解放に反対したのはパーシヴァルだけだったため、ほかの3人より有利な立場にいたという<ref name="ODNB" />。パーシヴァル自身は法務長官を続投しつつ弁護士業での収入を増やそうとし、3月20日には[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]と[[庶民院院内総務]](当時は財務大臣の年収が約1,300ポンドで、両者の合計で年収3,700ポンド)の任命を辞退した<ref name="DNB" /><ref name="HOP" />。『英国議会史』では[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]と庶民院院内総務の兼任(合計で年収6,000ポンド)ならば頷いたかもしれないが、それでも弁護士業を続けたほうが年収が高いと判断した<ref name="HOP" />。また復帰権による閑職取得も嫌い、調整は難航した<ref name="HOP" />。

ポートランド公爵はパーシヴァルを強引に説得したくなかったが、ホークスベリー男爵が国王に対し、パーシヴァルが「イングランドの旧家出身で、カトリック解放に関して陛下の意見とまったく同じ」と推薦したこともあり、結局財務大臣への就任に同意、また収入への足しとして[[ランカスター公領大臣]]を終身で務めることが約束された(合計で年収4,000ポンド)<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" /><ref name="HOP" />。ランカスター公領大臣の終身任命は前例があったものの、庶民院で大反対に遭い、終身任命への反対決議が25日に208対115で可決された<ref name="DNB" />。そのため、ランカスター公領大臣の終身任命は撤回され<ref name="DNB" />、パーシヴァルは1807年3月30日にランカスター公領大臣に、31日に財務大臣に任命された<ref>{{London Gazette|issue=16015|page=409|date=31 March 1807}}</ref>。

直前に{{仮リンク|1807年奴隷貿易廃止法|en|Slave Trade Act 1807}}が可決されたが<ref name="HOP" />、[[1807年イギリス総選挙|解散総選挙]]ではグレンヴィル内閣の人気が凋落していたこともあり与党が大勝した<ref name="DNB" />。

==== 就任直後の不調 ====
財務大臣に就任した直後のパーシヴァルによる議会演説はパーシヴァルの盟友を失望させた<ref name="DNB" />。というのも、それまでの演説の裏には細部にわたる準備があったが、財務大臣としての公務で多忙になったパーシヴァルにはそのような準備をする時間がなく、パーシヴァルには準備なしで流暢な演説ができるほどの国政に関する知識がなかった<ref name="DNB" />。またこの時期に{{仮リンク|ベルサイズ・パーク|en|Belsize Park}}から{{仮リンク|クラパム|en|Clapham}}に転居するなど私生活でも多忙だった<ref name="HOP" />。その結果、パーシヴァルは演説で緊張してどもり、その内容も弱かった<ref name="DNB" />。

休会中にポートランド公爵の要請で[[ダウニング街10番地]]に転居して私生活が落ち着いたことで、議会が再開された1808年1月には議論を主導できるようになり、議会で1807年の[[コペンハーゲン砲撃]]を擁護した<ref name="HOP" />。1809年3月8日から9日にかけての[[メアリー・アン・クラーク]]の陸軍売官スキャンダルをめぐる演説にいたっては[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]{{仮リンク|チャールズ・アボット (初代コルチェスター男爵)|en|Charles Abbot, 1st Baron Colchester|label=チャールズ・アボット}}から「3時間にわたる見事な演説」({{lang|en|masterly speech of three hours}})と賞賛され、のちに出版された<ref name="DNB" />。

==== 予算案 ====
1808年と1809年の予算案では新しい税を徴収せず、代わりに支出を減らし、低い利率で国債を発行して支出を支えた<ref name="ODNB" />。ただし、新しい税を徴収できるほど経済に余裕がないというのが主流の見方であり、国債発行も財務委員会の助言通りだったため、予算案での施策に目新しいところはなかった<ref name="ODNB" /><ref name="HOP" />。また1806年以来の[[ナポレオン・ボナパルト]]による[[大陸封鎖令|大陸封鎖]]への対抗として、1807年に発された対仏貿易およびフランスの同盟国との貿易を禁じる{{仮リンク|枢密院勅令 (1807年)|en|Orders in Council (1807)|label=枢密院勅令}}を起草したが、その内容の多くが{{仮リンク|ジェームズ・スティーブン (イギリスの政治家)|en|James Stephen (British politician)|label=ジェームズ・スティーブン}}が1805年に出版したパンフレットと同じだった<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。パーシヴァルは財務畑では新人だったが、このように予算案については議会であまり批判されなかった<ref name="HOP" />。

==== 閑職改革 ====
この時期、庶民院の財政委員会が提出した報告に基づき、政府が与える年金、閑職、庶民院の議席などのパトロネージが多すぎるとして、閑職改革を求める声が野党から上がった<ref name="ODNB" />。そのまま全廃すると政権が崩壊することは明らかだったが、パーシヴァル自身が閑職をそれほど擁護していなかったこともあり、野党から提出された改革案には直接反対しなかった<ref name="ODNB" />。その代わり、庶民院議員が持つ閑職と年金をすべて公開する法案から「庶民院議員が持つ」の条件を外して報告書の完成を遅らせ(首相就任後の1810年夏に発表)、庶民院議席の購入を違法化する法案(1809年)も修正で弱体化した形で可決させた<ref name="ODNB" />。

{{仮リンク|ヘンリー・バンクス|en|Henry Bankes}}が提出した、官職への復帰権(現職の死後、即座に官職に就任する権利)の廃止法案については進退両難の局面に陥った。1807年にはじめて提出されたときは兄のアーデン男爵(閑職で年収38,000ポンドを得ていた)の助力を借りて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で否決させたが、1808年の再提出では可決させるつもりにもかかわらずアーデン男爵が協力を拒否、国王も中立にとどまったため再度否決された<ref name="HOP" />。これによりパーシヴァルは議会で野党から責められ、1809年にバンクスと協議して1年間の[[時限立法]]を可決させた<ref name="HOP" />。バンクスは[[恒久法]]の成立に努力したが、パーシヴァルとアーデン男爵に阻まれ、1812年に再度時限立法を可決させるにとどまった<ref name="HOP" />。

==== 陸軍売官問題 ====
[[File:Gwyllym Lloyd Wardle by Arthur William Devis.jpg|thumb|right|{{仮リンク|グウィリム・ロイド・ウォードル|en|Gwyllym Lloyd Wardle}}。[[アーサー・ウィリアム・デヴィス]]画、1809年。]]
[[半島戦争]]中の1808年に{{仮リンク|シントラ協定|en|Convention of Cintra}}(フランス軍がポルトガルから撤退することを許可した、英仏間の協定)が締結されると、世論はフランス軍を逃がしたとして激怒した。カニングはイギリス軍の指揮官[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]をスケープゴートにすべきと主張したが、パーシヴァルとカースルレーが反対、1809年1月から2月にかけて議会でウェルズリーを擁護した<ref name="HOP" />。

しかし陸軍をめぐる危機は去らず、1月末には{{仮リンク|急進派 (イギリス)|en|Radicals (UK)|label=急進派}}の{{仮リンク|グウィリム・ロイド・ウォードル|en|Gwyllym Lloyd Wardle}}が[[フレデリック (ヨーク・オールバニ公)|ヨーク=オールバニ公爵フレデリック]]の愛人[[メアリー・アン・クラーク]]による陸軍売官を告発し、ヨーク公も共犯であると主張した<ref name="HOPYork">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/periods/hanoverians/duke-york-scandal-1809|title=The Duke of York Scandal, 1809|last=Fisher|first=David R.|access-date=27 August 2023}}</ref>。2か月近くの審議の末、3月9日にウォードルがヨーク公を{{仮リンク|陸軍最高司令官 (イギリス)|en|Commander-in-Chief of the Forces|label=陸軍最高司令官}}から解任する動議を提出した<ref name="HOPYork" />。パーシヴァルはヨーク公自身が売官を行っていないとし、解任より売官問題自体を解決すべきと主張して、ウォードルの動議を15日に賛成123・反対364で否決させたが、ヨーク公の無罪放免は17日に賛成193・反対279で否決された<ref name="HOPYork" />。クラークが審議中に売官を認め、さらにヨーク公とクラークの間の手紙が公開されてヨーク公に対する世論が厳しくなったこともあり、パーシヴァルは国王に対しヨーク公が辞任しなければさらなる面倒ごとが起きると警告、ヨーク公は翌日に辞任した<ref name="HOP" /><ref name="HOPYork" />。

パーシヴァルはヨーク公の辞任が一時しのぎであると約束していた。1809年末にウォードルがクラークの家の備え付け費用の支払を約束して、クラークに証言させたことが露見、1810年夏にクラークが金のために証言したことを認めると、ウォードルは完全に信用を失い、1811年6月11日にヨーク公の復職が可決された<ref name="HOPYork" />。ウォードルは1812年に議会を去り、1815年ごろに借金取りから逃れるために外国へ逃亡、1833年に[[トスカーナ大公国]]の[[フィレンツェ]]で死去した<ref name="HOPYork" />。

==== 第2次ポートランド公爵内閣崩壊 ====
ポートランド公爵内閣では[[外務・英連邦・開発大臣|外務大臣]][[ジョージ・カニング]]と[[陸軍・植民地大臣]][[ロバート・ステュアート (カースルレー子爵)|カースルレー子爵]]が犬猿の仲であり、1809年夏には内閣が倒れるほどの事件が起こった<ref name="DNB" />。パーシヴァルは最初はこのことについて知らず、6月の閣議でカニングがポートランド公爵にカースルレー子爵を解任させようとしたことを知ったほどだったが、それ以降はカースルレーに肩入れして、カースルレーには自身の処遇について知る権利があると主張しつつ、カースルレーが計画した{{仮リンク|ワルヘレン戦役|en|Walcheren Campaign|label=ワルヘレン遠征}}が終わるまで解任を延期すべきと主張した<ref name="DNB" />。特にカースルレーに知らせないまま解任した場合は自身も辞任すると脅した<ref name="ODNB" />。ただし、パーシヴァルはカースルレーには直接連絡せず、カニングとも友好な関係を保った<ref name="DNB" />。

8月末にポートランド公爵が卒中を起こして職務を執れなくなったとき、パーシヴァルはカニングに対し、自身が財務に関する責任をとれる限り、カニングやほかの閣僚が受け入れられる首相であれば自身も従うと述べ、{{仮リンク|ダドリー・ライダー (初代ハロービー伯爵)|en|Dudley Ryder, 1st Earl of Harrowby|label=第2代ハロービー男爵ダドリー・ライダー}}を首相に勧めた<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。しかしカニングは首相が庶民院議員であるべきと考え、この条件に合う人選はパーシヴァルとカニングしかいなかった<ref name="DNB" />。またカニングはパーシヴァルが首相の場合でも入閣しないと述べ、これを聞いたリヴァプール伯爵(1808年にホークスベリー男爵が爵位を継承)はカニングの首相の目が消えたと述べた<ref name="HOP" />。結果的にはより機転の利き、人気もあるパーシヴァルが選ばれ<ref name="DNB" />、カニングは9月12日に首相職を諦めた<ref name="HOP" />。

=== 首相就任 ===
==== 組閣 ====
ロミリーによれば、パーシヴァルの組閣は困難だった<ref name="DNB" />。小ピット派はすでに分裂しており、トーリー党の重鎮はカニングから遠ざかろうとした<ref name="DNB" />。カースルレーはカニングと敵対した<ref name="DNB" />。シドマス子爵(アディントンが1805年に叙爵)の助けを求めてもかえって庶民院で票を失う<ref name="DNB" />。ポートランド公爵内閣の閣僚は野党のグレンヴィル男爵や[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ]]に連立内閣を打診すべきとの助言を与え、国王ジョージ3世も不本意ながら許可を与えたが、グレンヴィルにもグレイにも拒否された<ref name="DNB" />。パーシヴァルは財務大臣の重圧をだれかに押し付けようとしたが、打診した候補6人(カニング、{{仮リンク|ニコラス・ヴァンシッタート (初代ベクスリー男爵)|en|Nicholas Vansittart, 1st Baron Bexley|label=ニコラス・ヴァンシッタート}}、[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]、{{仮リンク|ロバート・ペンバートン・ミルンズ|en|Robert Pemberton Milnes}}、ローズ、{{仮リンク|チャールズ・ロング (初代ファーンバラ男爵)|en|Charles Long, 1st Baron Farnborough|label=チャールズ・ロング}})全員に辞退され<ref name="HOP" /><ref name="GovUK" />、結局1809年12月2日に内閣名簿を完成したときには兼任せざるを得なかった<ref name="DNB" />。ただし首相就任にあたり財務大臣としての賃金を放棄しており、のちに議会で野党からの批判をかわすためのカードとして使った<ref name="HOP" />。

内閣は発足時点で弱い部類とみなされた<ref name="DNB" />。議会では野党の勢力が根強く、ポートランド公爵が辞任する前もカースルレーとカニングの助力を借りてようやく抑え込めた程度だったが<ref name="DNB" />、新内閣の閣僚のうち庶民院議員はパーシヴァルと[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]の{{仮リンク|リチャード・ライダー (1766年生の政治家)|en|Richard Ryder (politician, born 1766)|label=リチャード・ライダー}}の2名だけと議会基盤が弱かった<ref name="HOP" />。かろうじて国王がパーシヴァルを支持したことで一旦は発足できた<ref name="HOP" />。

内閣名簿は下記の通り<ref name="Gray471">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=471|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。<!--[[パーシヴァル内閣]]が作成されたら、本記事から除去したほうがよい-->
*首相([[第一大蔵卿]])、財務大臣、ランカスター公領大臣:スペンサー・パーシヴァル
*[[王璽尚書]]:[[ジョン・フェイン (第10代ウェストモーランド伯爵)|第10代ウェストモーランド伯爵]]
*[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]
**{{仮リンク|ジョン・プラット (初代カムデン侯爵)|en|John Pratt, 1st Marquess Camden|label=第2代カムデン伯爵}}(1809年10月 – 1812年3月)
**シドマス子爵(1812年4月 – 5月)
*[[大法官]]:{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=初代エルドン男爵}}
*[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]:リチャード・ライダー
*[[外務・英連邦・開発大臣|外務大臣]]
**[[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|第3代バサースト伯爵]](1809年10月 – 11月)
**ウェルズリー侯爵(1809年12月 – 1812年3月)
**カースルレー子爵(1812年3月 – 5月)
*[[陸軍・植民地大臣]]:第2代リヴァプール伯爵
*{{仮リンク|海軍卿 (イギリス)|en|First Lord of the Admiralty|label=海軍卿}}
**[[ヘンリー・フィップス (初代マルグレイヴ伯爵)|第3代マルグレイヴ男爵]](1809年10月 – 1810年5月)
**{{仮リンク|チャールズ・フィリップ・ヨーク|en|Charles Philip Yorke}}(1810年5月 – 1812年3月)
**{{仮リンク|ロバート・ダンダス (第2代メルヴィル子爵)|en|Robert Dundas, 2nd Viscount Melville|label=第2代メルヴィル子爵}}(1812年3月 – 5月)
*[[インド庁長官]]
**ロバート・ダンダス(1811年に第2代メルヴィル子爵。在任期間:1809年10月 – 1812年3月)
**[[ロバート・ホバート (第4代バッキンガムシャー伯爵)|第4代バッキンガムシャー伯爵]](1812年3月 – 5月)
*{{仮リンク|軍需局総監|en|Master-General of the Ordnance}}
**{{仮リンク|ジョン・ピット (第2代チャタム伯爵)|en|John Pitt, 2nd Earl of Chatham|label=第2代チャタム伯爵}}(1809年10月 – 1810年3月)
**第3代マルグレイヴ男爵(1810年3月 – 1812年5月)
*[[商務庁長官]]、[[王立造幣局]]長:[[ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)|第3代バサースト伯爵]]
*[[無任所大臣]]
**第3代ポートランド公爵(1809年10月)
**初代ハロービー伯爵(第2代ハロービー男爵が1809年に叙爵。在任期間:1809年11月 – 1812年3月)
**第2代カムデン伯爵(1812年3月 – 5月)

==== ナポレオン戦争の戦況 ====
[[ナポレオン戦争]]は順調とは言えず、{{仮リンク|ワルヘレン戦役|en|Walcheren Campaign|label=ワルヘレン遠征}}が失敗に終わり、[[半島戦争]]では[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]が{{仮リンク|タラベラ・デ・ラ・レイナの戦い|en|Battle of Talavera}}で勝利したもののすぐに撤退に追い込まれた<ref name="DNB" />。パーシヴァルは1810年1月にワルヘレン遠征を擁護するはめになったが、ワルヘレン遠征を率いた軍需局総監の{{仮リンク|ジョン・ピット (第2代チャタム伯爵)|en|John Pitt, 2nd Earl of Chatham|label=第2代チャタム伯爵ジョン・ピット}}が報告を内閣に届けず、国王に直接届けたことを追及され、パーシヴァルがチャタムを辞任させる形で面子を保ち<ref name="DNB" />、『英国議会史』はチャタムの辞任で内閣が「息を吹き返した」と評した<ref name="HOP" />。その後、予算案を通すことに成功したが、{{仮リンク|ヘンリー・バンクス|en|Henry Bankes}}の閑職改革法案をめぐる採決で敗北した<ref name="DNB" />。

このようにして、パーシヴァル内閣は1810年6月21日の議会休会まで持ちこたえたが、状況は予断を許さなかった<ref name="DNB" />。この会期ではシドマス派とカニング派の支持が不可欠だったが、バサースト伯爵は開会早々内閣支持を取りやめ、カニングも組閣時のいざこざで内閣を支持せず、会期の終わりには野党に転じた<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。パーシヴァルはシドマスとカースルレーに入閣を打診して断られ、カニングに至っては9月にそのようなことを彼に求めないようにとくぎを刺した<ref name="DNB" />。このほかにもカニングとカースルレー、カニングと[[ウィリアム・ハスキソン]]の同時入閣案もあったが、前者はカースルレーに拒否され、後者はパーシヴァルがハスキソンの財政政策を支持しなかったことで実現しなかった<ref name="HOP" />。このほか、議会のスコットランド派閥を持つ{{仮リンク|ヘンリー・ダンダス (初代メルヴィル子爵)|en|Henry Dundas, 1st Viscount Melville|label=初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダス}}との交渉も不調に終わった<ref name="ODNB" />。

==== 摂政法問題 ====
[[File:George IV by Sir Thomas Lawrence.jpg|thumb|right|摂政王太子[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ]]。[[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画、1814年ごろ。]]
1810年10月、国王ジョージ3世の精神障害が再発した<ref name="DNB" />。パーシヴァルは相次ぐ休会動議で国王の回復を待とうとしたが、議会がしびれを切らしてきて、何かしらの手を打つ必要があった<ref name="HOP" />。パーシヴァルが[[摂政王太子]]を務めてきた[[プリンス・オブ・ウェールズ]]、ジョージ(のちの[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])と対立したこともあり、12月20日に決議案を提出した<ref name="DNB" />。この決議案は1788年の摂政法危機で小ピットが提出して可決させたものと同じであり、摂政王太子の権限を制限するものであったため、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]は前回と同じく反発し、王太子が摂政を務める権利は剝奪できないものであると主張した<ref name="DNB" />。王太子らジョージ3世の息子たちはこぞって抗議文を出したが、パーシヴァルは動じず、31日に摂政法案を提出した<ref name="DNB" />。『[[英国人名事典]]』の評するところでは、パーシヴァルは弁論ではカニング、カースルレー、ウィルバーフォースなどの論敵よりすぐれていたが、議会での劣勢は覆られず、法案は野党の修正動議を含めた形で可決された<ref name="DNB" />。一方、『オックスフォード英国人名事典』では野党の戦略ミスと断じ、否決にできたところを紙一重で可決されてしまったと評している<ref name="ODNB" />。

王太子ジョージは摂政に就任するとパーシヴァル内閣を罷免するつもりであり、新内閣の閣僚リストを準備したほどであった<ref name="DNB" />。この新内閣で重要なポストに就く予定のグレイ伯爵は就任の条件として、王太子が政治問題について内閣にいない側近([[リチャード・ブリンズリー・シェリダン]]、[[フランシス・ロードン=ヘイスティングズ (初代ヘイスティングズ侯爵)|第2代モイラ伯爵フランシス・ロードン=ヘイスティングズ]]など)に諮問しないよう約束させようとしたが、交渉は失敗に終わった<ref name="DNB" />。さらにジョージ3世に回復の可能性があり、回復すると新内閣を罷免するだろうというのが大方の予想だったため、政権交代についても王太子が思いとどまる形で実現せず、1811年2月4日に王太子がパーシヴァルに述べた「政権交代のような心をかき乱す出来事で国王の回復を妨げたくない」が表向きの理由となった<ref name="DNB" />。王太子が表立った対立を回避したことで、議会での王太子派が与党に回ることとなり、パーシヴァル政権は大きく安定した<ref name="DNB" />。

==== 宗教問題 ====
パーシヴァルは[[カトリック解放]]に反対しており<ref name="DNB" />、首相就任以前にも1805年5月、1807年3月など複数回反対演説をした<ref name="HOP" />。『オックスフォード英国人名事典』によれば、思想面では[[千年王国]]説を信じていたことと頑迷な偏見を持っていたこと、政治現実の面ではカトリック解放を実施すると国教会が弱体化するが、カトリックが多数派のアイルランドを満足させるには至らず実利が少ない、といった理由が挙げられる<ref name="ODNB" />。また実際に議会でカトリック問題が議論されたとき、王太子がカトリック解放に反対したことがパーシヴァルに有利に働いた<ref name="ODNB" />。

1808年にカトリック解放に恒久的に反対するものではないと述べたが、『英国議会史』ではカトリック問題の解決策にアイルランド警察の改革と[[アイルランド国教会]]の教会を増やすことを挙げるあたり、ただの頑迷であるとこき下ろした<ref name="HOP" />。

パーシヴァルは一般的な福音派と違い[[イングランド国教会]]を支持したため、その改革を推進し、聖職者の俸給を上げ<!--1810年-->、不在聖職者を減らす施策を行い、工業都市での教会建設を推進した<ref name="ODNB" />。

==== 閣内の動揺 ====
[[File:Richard Wellesley.jpeg|thumb|right|[[外務・英連邦・開発大臣|外務大臣]]の[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリー]]。]]
野党の脅威は去ったが、今度は閣内の対立が表面化した<ref name="DNB" />。[[外務・英連邦・開発大臣|外務大臣]]の[[リチャード・ウェルズリー (初代ウェルズリー侯爵)|初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリー]]とパーシヴァルが対立したのであった<ref name="DNB" />。すなわち、ウェルズリーにとってパーシヴァルは[[半島戦争]]中のイギリス軍を餓死させようとしており、パーシヴァルにとってのウェルズリーは偏見に満ち、金づかいが荒かった<ref name="DNB" />。1811年秋にはウェルズリーと摂政王太子の間で政策の方針転換と政権交代に関する意見交換があり、1812年初に摂政法における摂政への制限が期間満了するとともに摂政王太子がパーシヴァルを更迭してウェルズリーを首相につけ、ウェルズリーは見返りとして王室費を増やすという計画が議論された<ref name="DNB" />。パーシヴァルには王室費を増やすつもりがなく、閣議で王室費増額に関する決定が下されるときはウェルズリーが辞任を決めた<ref name="DNB" />。その少し前に{{仮リンク|海軍卿 (イギリス)|en|First Lord of the Admiralty|label=海軍卿}}の{{仮リンク|チャールズ・フィリップ・ヨーク|en|Charles Philip Yorke}}もほかの理由で辞任していたが、パーシヴァルはウェルズリーの後任にカースルレーを、ヨークの後任に{{仮リンク|ロバート・ダンダス (第2代メルヴィル子爵)|en|Robert Dundas, 2nd Viscount Melville|label=第2代メルヴィル子爵ロバート・ダンダス}}を任命して、内閣改造という形で事態をおさめた<ref name="DNB" />。ウェルズリーは自身の辞任でパーシヴァルに圧力をかけるつもりだったが、あっさりと辞任を受諾されて当てが外れた<ref name="HOP" />。

しかしこの内閣改造によって政権は少なからず動揺し、閑職改革をめぐる採決で与党が敗北することとなった<ref name="DNB" />。パーシヴァルは1811年8月に摂政王太子からの圧力を受けて、王太子の秘書官[[ジョン・マクマホン (初代準男爵)|ジョン・マクマホン]]を実入りのいい閑職である士官寡婦年金主計官に任命したが、マクマホンと王太子の関係は1812年1月から2月にかけて庶民院で批判的に取り上げられた<ref name="HOPMcMahon">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/mcmahon-john-1754-1817|title=MCMAHON, John (c.1754-1817), of Carlton House and Charles Street, St. James's Square, Mdx.|last=Thorne|first=R. G.|access-date=20 August 2023}}</ref>。庶民院ではこの任命をめぐり決議案が3度提出されており、1度目は大差で否決されたが採決ごとに票差が縮まり、3度目は115票対112票で与党が敗北した<ref name="HOPMcMahon" />。決議案の可決を受けたマクマホンは辞任した<ref name="HOPMcMahon" />。

1807年の対仏貿易およびフランスの同盟国との貿易を禁じる{{仮リンク|枢密院勅令 (1807年)|en|Orders in Council (1807)|label=枢密院勅令}}についても譲歩を余儀なくされた<ref name="DNB" />。この勅令の効果については、フランスが影響を受けず、イギリスの外国貿易だけが損害を被っているとする声が途絶えなかった<ref name="DNB" />。パーシヴァルは諸手を挙げて枢密院勅令を支持したわけではなかったが、ナポレオン戦争により必要な施策として擁護、1812年3月に[[ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ヴォークス男爵)|ヘンリー・ブルーム]]が提出した調査決議案を否決させたが、全国の工業地帯からの請願は数多く、4月には譲歩して委員会設立に同意せざるを得なかった<ref name="DNB" />。

これらの政策以外では内閣への支持が回復傾向にあり、1812年4月にシドマス子爵を[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]として入閣させ、シドマス派を与党に回らせたことで盤石な内閣とみられた<ref name="ODNB" /><ref name="HOP" />。


=== 暗殺 ===
=== 暗殺 ===
{{Main|{{仮リンク|スペンサー・パーシヴァルの暗殺|en|Assassination of Spencer Perceval}}}}
{{Main|{{仮リンク|スペンサー・パーシヴァルの暗殺|en|Assassination of Spencer Perceval}}}}
[[ファイル:Assassination of Spencer Perceval.jpg|250px|サムネイル|右|パーシヴァル暗殺を描いた絵<br />{{Smaller|右端で取り押さえられているのが暗殺を実行したジョン・ベリンガム}}]]
[[ファイル:Assassination of Spencer Perceval.jpg|250px|サムネイル|右|パーシヴァル暗殺を描いた絵<br />{{Smaller|右端で取り押さえられているのが暗殺を実行したジョン・ベリンガム}}]]
1812年5月11日の16時半、庶民院の枢密院勅令委員会が証人喚問を開始した<ref name="DNB" /><ref name="HistoryPress">{{Cite web2|language=en|url=https://www.thehistorypress.co.uk/articles/the-assassination-of-spencer-perceval-british-prime-minister/|title=The assassination of Spencer Perceval, British Prime Minister|last=Hanrahan|first=David C.|website=The History Press|access-date=20 August 2023}}</ref>。このとき、出席していた議員はわずか60名であり<ref name="HistoryPress" />、パーシヴァルが出席していなかったためブルームが抗議し、人に行かせてパーシヴァルを呼んだ<ref name="DNB" />。パーシヴァルは呼びに応じて官邸の[[ダウニング街10番地]]から歩き、17時15分ごろに庶民院のロビーに入った<ref name="HistoryPress" />。そこへ{{仮リンク|ジョン・ベリンガム|en|John Bellingham}}がやってきて、パーシヴァルは至近距離から銃弾を浴びた<ref name="HistoryPress" />。パーシヴァルは前方によろめいたのち倒れ、「私は殺された」({{lang|en|I am murdered!}})と叫んだ<ref name="HistoryPress" />。現場にいたフランシス・フィリップス({{lang|en|Francis Philips}})と庶民院議員{{仮リンク|ウィリアム・スミス (ノリッジ選挙区の庶民院議員)|en|William Smith (abolitionist)|label=ウィリアム・スミス}}はパーシヴァルをなんとか議長席に座らせたが<ref name="HistoryPress" />、パーシヴァルは医者が到着する前に死亡した<ref name="DNB" />。
1812年5月11日、パーシヴァル政権の経済政策に不満を持つ精神障害者{{仮リンク|ジョン・ベリンガム|en|John Bellingham}}によって、パーシヴァルは下院のロビーで至近距離から銃弾を浴び、即死した。

ベリンガムは精神障害者であり、昔ロシアで逮捕されたとき、ロシア法で裁かれるところを在[[サンクトペテルブルク]]イギリス大使に介入を拒否された<ref name="DNB" />。帰国後、パーシヴァルに対し補償を申請したが、これが拒否されたことでパーシヴァルに対し恨みを持っていた<ref name="DNB" />。そして、数週間にわたって庶民院を観察したのち、暗殺を実行に移した<ref name="HistoryPress" />。ベリンガムは5月15日に{{仮リンク|オールド・ベイリー (裁判所)|en|Old Bailey|label=オールド・ベイリー}}で裁判にかけられ、精神障害の申し立てを却下された結果5月18日に絞首刑で処刑された<ref name="DNB" />。全国に広まった[[ラッダイト運動]]もあり、暗殺事件の直後は上流社会ではイギリス革命が勃発かと恐れられ、ベリンガムの身柄をウェストミンスターから[[ニューゲート監獄]]に移送するときも陸軍の部隊が駆り出されたほどだったが、ベリンガムの逮捕から裁判・処刑までわずか1週間だったこともあり、ベリンガムの名前はたちまち忘れ去られた<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://blog.nationalarchives.gov.uk/the-assassination-of-spencer-perceval/|title=The assassination of Spencer Perceval|last=Dunton|first=Mark|date=11 May 2012|website=[[イギリス国立公文書館|The National Archives]]|access-date=20 August 2023}}</ref>。

後任の首相は内閣からリヴァプール伯爵が推薦された<ref name="ODNBLiverpool">{{Cite ODNB|id=14740|title=Jenkinson, Robert Banks, second earl of Liverpool|last=Gash|first=Norman|date=10 October 2019|orig-date=23 September 2004}}</ref>。直後に庶民院の採決で敗北して総辞職したが、ほかに組閣できた人物はおらず、6月8日に[[リヴァプール伯爵内閣]]の留任が決定された<ref name="ODNBLiverpool" />。ノーサンプトンでの議席はコンプトン家に戻され、パーシヴァルの初当選時には子供だった[[スペンサー・コンプトン (第2代ノーサンプトン侯)|コンプトン卿スペンサー・コンプトン]]が5月26日の補欠選挙で当選した<ref name="HOPNorthampton" />。

=== 死後の記念 ===
[[File:Memorial to death of Spencer Perceval, Westminster Abbey.jpg|thumb|right|[[ウェストミンスター寺院]]にあるパーシヴァルの記念碑、2022年撮影。]]
5月16日<ref name="DNB" />、パーシヴァルの遺体は[[チャールトン]]の{{仮リンク|聖ルカ教会 (チャールトン)|en|St Luke's Church, Charlton|label=聖ルカ教会}}にある家族納骨所に埋葬された<ref name="WestminsterAbbey">{{Cite web2|language=en|url=https://www.westminster-abbey.org/abbey-commemorations/commemorations/spencer-perceval#i15158|title=Spencer Perceval|website=Westminster Abbey|access-date=20 August 2023}}</ref>。聖ルカ教会にはパーシヴァルの胸像が現存する<ref name="WestminsterAbbey" />。

死去時点で{{仮リンク|ドラマンズ銀行|en|Drummonds Bank}}の口座には106ポンド5[[シリング]]1[[ペニー]]しかなく、妻ジェーンに与えられた<ref name="Drummonds" />。この状況を知った庶民院はパーシヴァルの家族に5万ポンドを与え、さらにパーシヴァルの妻に2,000ポンドの年金を与えた<ref name="DNB" />。この年金は2人の長男が相続でき、相続した場合は3,000ポンドに増額されるとした<ref name="DNB" />。年金は世代にわたって相続され、20世紀にはパーシヴァルの孫娘の息子にあたる{{仮リンク|エドワード・マーシュ (博学家)|en|Edward Marsh (polymath)|label=サー・エドワード・マーシュ}}が受給したことが知られている<ref name="Drummonds" />。庶民院は年金のほか、[[ウェストミンスター寺院]]で記念碑を立てることも可決した<ref name="DNB" />。この記念碑は1814年に発注され、[[リチャード・ウェストマコット]]の手で完成して1822年12月21日に除幕式が行われた<ref name="WestminsterAbbey" />。

ロンドンの{{仮リンク|ノーサンプトン・スクエア|en|Northampton Square}}にはパーシヴァルに由来するパーシヴァル・ストリートが現存する<ref>{{Cite book2|language=en|editor-last=Temple|editor-first=Philip|title=Survey of London|volume=46|pages=294–304|chapter=Northampton Square area: Introduction|chapter-url=https://www.british-history.ac.uk/survey-london/vol46/pp294-304|via=British History Online|date=2008|publisher=London County Council|location=London|access-date=20 August 2023}}</ref>。

娘婿[[スペンサー・ホレーショ・ウォルポール]]の息子で歴史学者の{{仮リンク|スペンサー・ウォルポール|en|Spencer Walpole}}は1874年にスペンサー・パーシヴァルの伝記を出版した<ref name="EB1911" /><ref>{{Cite book2|language=en|last=Walpole|first=Sir Spencer|author-link=スペンサー・ウォルポール|title=The Life of the Rt. Hon. Spencer Perceval|date=1874|location=London|publisher=Hurst and Blackett|url=https://archive.org/details/cu31924088008325/}}</ref>。

2014年には{{仮リンク|マイケル・エリス (イギリスの政治家)|en|Michael Ellis (British politician)|label=マイケル・エリス}}の提唱で[[ウェストミンスター宮殿]]のセント・スティーブンス・ホールにてパーシヴァルの記念碑が建てられた<ref>{{Cite news2|language=en|url=https://www.bbc.com/news/uk-england-28406576|title=Spencer Perceval: Plaque for assassinated prime minister|work=BBC News|date=21 July 2014|access-date=20 August 2023}}</ref>。

== 人物・評価 ==
背が低くやせており、肌は色白だった<ref name="DNB" />。{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=初代エルドン男爵ジョン・スコット}}(のち初代[[エルドン伯爵]])からは「リトルP」({{lang|en|Little P}})のあだ名で呼ばれた<ref name="ODNB" />。パーシヴァルは黒い服を着ることで色白い肌との対比を強調し、熱心な雰囲気がにじみ出るようにした<ref name="ODNB" />。青年期に福音派に触れたことで敬虔なキリスト教徒になり、家族を大事に扱い<ref name="GovUK" />、礼拝に欠かさずに行き、[[安息日]]を厳守し、ギャンブル、大酒飲み、狩猟、不倫を批判、[[奴隷制度]]の廃止を支持した<ref name="DNB" /><ref name="ODNB" />。『英国議会史』に至っては名声に「汚点がない」と評した<ref name="HOP" />。『[[オックスフォード英国人名事典]]』によれば、パーシヴァルの死去時点で形成されていた、パーシヴァルの性格のイメージは後年の歴史研究でもほとんど変わらなかった<ref name="ODNB" />。生前に肖像画が描かれたことがなく、現存する同時代の肖像画は死後に[[デスマスク]]から描かれたものである<ref>{{Cite news2|language=en|url=https://www.theguardian.com/politics/2012/may/10/spencer-perceval-assassinated-prime-minister|title=Spencer Perceval, the assassinated prime minister that history forgot|last=Kennedy|first=Maev|date=10 May 2012|newspaper=[[ガーディアン|The Guardian]]|access-date=20 August 2023}}</ref><ref name="Drummonds" />。

同時代の人物からは概ね賞賛されており、[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]がウェリントンへの手紙で評したところでは「どのような大臣よりも庶民院で権威を確立しており、唯一の例外が小ピット」だという<ref name="HistoryPress" />。{{仮リンク|ジョン・ウォード (初代ダドリー伯爵)|en|John Ward, 1st Earl of Dudley|label=第4代ダドリー=ウォード子爵ジョン・ウォード}}(のち初代[[ダドリー伯爵]])は{{仮リンク|ヘレン・ダーシー・ステュアート|en|Helen D'Arcy Stewart}}への手紙でパーシヴァルを「フォックス氏の死後、議会で最も有力な人物」と評し、演説家としては小ピットの雄弁には及ばなかったものの、演説時の機敏さにかけては小ピットに負けなかったとしている<ref name="ODNB" />。『オックスフォード英国人名事典』はこの評価も後年の研究で覆らなかったとしている<ref name="ODNB" />。

19世紀末の『[[英国人名事典]]』が評するところでは、パーシヴァルが弁論と行政の手腕を有し、首相として頼れる味方がほとんどいなかったものの、ほぼ一人の力で政敵を制し、[[ナポレオン戦争]]を遂行した<ref name="DNB" />。戦争対策に関しては{{仮リンク|ウィリアム・フランシス・パトリック・ネイピア|en|William Francis Patrick Napier}}がパーシヴァルを厳しく批判しており、彼によればウェリントンが補給の不足について不平を言ったことがあったという<ref name="DNB" />。しかし、ウェリントンは1835年にパーシヴァルの息子に対し、そのような不平を言ったことはなく、内閣からの支援を受けたと述べ、{{仮リンク|チャールズ・グレヴィル (日記作家)|en|Charles Greville (diarist)|label=チャールズ・グレヴィル}}に対してはネイピアがパーシヴァルに不公平な批判をしたと述べ、自身が[[半島戦争]]を戦っていたときは確かに資金が不足していたが、それは本国政府のせいではないとも述べた<ref name="DNB" />。『英国人名事典』はこれらの言葉を挙げてパーシヴァルの戦争対策を擁護したが、[[カトリック解放]]への反対については「賢明でない」とし、財政政策も「よくて当座しのぎ」と評した<ref name="DNB" />。性格については頑固と評し、「パーシヴァルの言葉は閣僚にとっての法律になり、より専門的な経験を有し、賢明な判断をした[[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|リヴァプール伯爵]]の意見は却下された」とした<ref name="DNB" />。総評としては粘り強さをもって頻繁な政権交代を避け、頑固さをもって戦争を戦い抜いたが、ナポレオン戦争という画期においてイギリス首相に必要な知識も非凡な才能も有してるとはいいがたかった<ref name="DNB" />。[[カトリック解放]]問題をめぐる政敵の{{仮リンク|ヘンリー・グラタン|en|Henry Grattan}}も同様な評価を下しており、軍艦にたとえて「彼は[[戦列艦]]ではないが、大砲を多く有し、堅固でどのような天気でも航海できる」と評した<ref name="ODNB" />。

デニス・グレイのスペンサー・パーシヴァル伝(1963年)ではパーシヴァル暗殺の数日前に[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[1812年ロシア戦役]]を開始して[[パリ]]を発っており、パーシヴァルが暗殺されていなければ「[[ワーテルローの戦い]]のときでも権力を握っていたんだろう」と評している<ref name="Gray470">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=470|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。さらに「小ピットの死去時点ではまだ嵐が吹き荒れており、パーシヴァルこそが国という船を港の入り口へと運ばせた」と高評価を下した<ref name="Gray470" />。

『英国議会史』(1986年)ではハロービー以外の同僚を全面的に信用することがなく、自身の派閥も育てずに自分の演説だけで議会を説得したと評した<ref name="HOP" />。また、1809年の首相就任に前向きではなかったと一般的にはみられるが、実際には自ら辞任して他人に譲るつもりはなかったとも評している<ref name="HOP" />。

『オックスフォード英国人名事典』(2004年)はパーシヴァルの視野の狭さを批判しており、[[ロンドン]]以外の世界を自分の目で見ることがほとんどなく、1790年代に一度だけ[[チェシャー]]の{{仮リンク|ナッツフォード|en|Knutsford}}(ロンドンから北西約250[[キロメートル]])に行った程度でそれより遠い場所には行ったことがないとされる<ref name="ODNB" /><ref name name="Gray469">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=469|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。同著はこの見識の少なさにより、パーシヴァルが小ピットの政策に代わる新しいものを出せなかったと推測した<ref name="ODNB" />。また戦争遂行優先の財政政策が[[半島戦争]]、ひいてナポレオン戦争全体における対仏大同盟軍の勝利につながったと評価している<ref name="ODNB" />。

21世紀初の歴史学者{{仮リンク|アーサー・バーンズ (歴史学者)|en|Arthur Burns (historian)|label=アーサー・バーンズ}}は[[国教忌避]]者が政権の非国教徒に対する反動政策を恐れたが、[[フランス革命]]で大きな変革が警戒されたこと、パーシヴァルの政治的野心のなさ、在任中に暗殺されたこと、という3つの理由で非国教徒への反動政策が実施されなかったとしている<ref name="GovUK" />。

== 家族と私生活 ==
[[File:Portrait of Mrs. Spencer Perceval by Elisabeth-Louise Vigée Le Brun.jpg|thumb|right|ジェーン・ウィルソンの肖像画。[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン]]画、1804年。]]
1790年8月10日、ジェーン・ウィルソン({{lang|en|Jane Wilson}}、1844年1月26日没、{{仮リンク|トマス・ウィルソン (第6代準男爵)|en|Thomas Spencer Wilson|label=第6代準男爵サー・トマス・スペンサー・ウィルソン}}の娘)と結婚、6男6女をもうけた<ref name="Burke1999" />。義父はパーシヴァルの貧しさから2人の結婚に反対したが、ジェーンがパーシヴァルと同じく敬虔だったこともあり2人の仲は良好で、一家は毎日の祈りを一緒にしたという<ref name="ODNB" />。
*ジェーン(1791年10月19日 – 1824年1月13日) - 1821年3月20日、エドワード・パーシヴァル閣下({{lang|en|Hon. Edward Perceval}}、1795年7月30日 – 1840年3月10日、{{仮リンク|チャールズ・パーシヴァル (第2代アーデン男爵)|en|Charles Perceval, 2nd Baron Arden|label=第2代アーデン男爵チャールズ・パーシヴァル}}の息子)と結婚<ref name="Lodge1892">{{Cite book2|language=en|editor-last=Lodge|editor-first=Edmund|editor-link=エドマンド・ロッジ|title=The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing|edition=61st|date=1892|location=London|publisher=Saunders and Otley|pages=227–228|url=https://books.google.com/books?id=1yQwAAAAYAAJ&pg=PA227}}</ref>
*フランシス(1792年11月27日 – 1877年4月29日<ref name="Lodge1892" />)
*マリア(1794年2月26日 – 1877年1月19日<ref name="Lodge1892" />)
*{{仮リンク|スペンサー・パーシヴァル (1795-1859)|en|Spencer Perceval (junior)|label=スペンサー}}(1795年9月11日 – 1859年9月16日) - 庶民院議員。1821年7月3日、アンナ・イライザ・マクロード({{lang|en|Anna Eliza Macleod}}、1889年10月2日没、ノーマン・マクロードの娘)と結婚、子供あり<ref name="Burke1999" />。父の死後、リンカーン法曹院の評議員により学費を免除された<ref name name="Gray463">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=463|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>
*フレデリック・ジェームズ(1797年10月6日 – 1861年7月22日) - 1827年7月25日、メアリー・バーカー({{lang|en|Mary Barker}}、1843年4月24日没、ウィリアム・バーカーの娘)と結婚、子供あり。1844年4月6日、エマ・ギルバート({{lang|en|Emma Gilbert}}、1870年12月23日没、ラルフ・ギルバートの娘)と再婚、子供あり<ref name="Burke1999" />。[[デ・ジュリ|法律上]]の第10代エグモント伯爵フレデリック・ジョージ・ムーア・パーシヴァルの祖父<ref>{{Cite book2|language=en|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor-last2=Hammond|editor-first2=Peter W.|title=The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda)|volume=14|date=1998|edition=2nd|publisher=Sutton Publishing|location=Stroud|isbn=978-0-7509-0154-3|url=https://www.familysearch.org/library/books/records/item/568116-redirection|url-access=registration|page=299}}</ref>
*ヘンリー(1799年8月2日 – 1885年4月) - 聖職者。1826年3月27日、キャサリン・イザベラ・ドラモンド({{lang|en|Catherine Isabella Drummond}}、1870年2月12日没、アンドルー・バークリー・ドラモンドの娘)と結婚、子供あり<ref name="Burke1999" />
*ダドリー・モンタギュー(1800年10月22日 – 1856年9月2日) - 1827年7月24日、メアリー・ジェーン・バーク({{lang|en|Mary Jane Bourke}}、1888年5月21日没、{{仮リンク|リチャード・バーク|en|Richard Bourke|label=サー・リチャード・バーク}}の娘)と結婚、子供あり<ref name="Burke1999" />。父の死後、リンカーン法曹院の評議員により学費を免除された<ref name="Gray463" />
*イザベラ(1801年12月10日 – 1886年7月16日) - 1835年10月6日、[[スペンサー・ホレーショ・ウォルポール]](1898年5月22日没)と結婚、子供あり<ref name="Lodge1907">{{Cite book2|language=en|editor-last=Lodge|editor-first=Edmund|editor-link=エドマンド・ロッジ|title=The Peerage, Baronetage, Knightage & Companionage of the British Empire for 1907|edition=76th|volume=1|date=1907|location=London|publisher=Saunders and Otley|pages=687–688|url=https://catalog.hathitrust.org/Record/100646039}}</ref>
*{{仮リンク|ジョン・トマス・パーシヴァル|en|John Thomas Perceval|label=ジョン・トマス}}(1803年2月14日 – 1876年2月28日) - 陸軍軍人。1834年3月31日、アンナ・ガードナー({{lang|en|Anna Gardner}}、1883年1月23日没、トマス・ガードナーの娘)と結婚、子供あり<ref name="Burke1999" />。2つの精神病院に入ったことがあり、病院で受けた残酷な扱いを著作『語り』で告発した<ref>{{Cite journal|language=ja||last=松村|first=高夫|title=ロイ・ポーター著 狂気の社会史|publisher=慶應義塾経済学会|date=1993|journal=三田学会雑誌 |volume=86|issue=3|page=330|doi=10.14991/001.19931001-0166|doi-access=free}}</ref>
*ルイーザ(1804年3月11日 – 1891年9月13日<ref name="Lodge1907" />)
*フレデリカ(1805年8月27日 – 1900年5月12日<ref name="Lodge1907" />)
*アーネスト・オーガスタス(1807年5月17日 – 1896年1月19日) - 陸軍軍人。1830年5月13日、ベアトリス・トレヴェリアン({{lang|en|Beatrice Trevelyan}}、1898年3月19日没、[[ジョン・トレヴェリアン (第5代準男爵)|第5代準男爵サー・ジョン・トレヴェリアン]]の娘)と結婚、子供あり<ref name="Burke1999" />

1790年に結婚したときはロンドンのベッドフォード・ロー({{lang|en|Bedford Row}})でカーペット屋の上の階に部屋を借りていたが<ref name="Drummonds" />、1793年ごろに義父が妻に与えた金を使って[[リンカーンズ・イン・フィールズ]]で住居を購入したが、1796年までに子女を5人もうけて家計に重くのしかかった<ref name="DNB" />。{{仮リンク|ベルサイズ・パーク|en|Belsize Park}}や{{仮リンク|クラパム|en|Clapham}}に住むこともあったが<ref name="HOP" />、1807年末までに[[ダウニング街10番地]]に住むようになり<ref name="GovUK" />、1812年に庶民院で暗殺されたときも官邸から歩いて庶民院についたところだった<ref name="HistoryPress" />。このほか、1808年に[[イーリング]]のエルム・グローヴ({{lang|en|Elm Grove}})を7,500ポンドで購入して、郊外での住居とした<ref name="Gray141">{{Cite book2|language=en|last=Gray|first=Denis|title=Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812|date=1963|publisher=Manchester University Press|page=141|url=https://archive.org/details/spencerpercevale00gray|url-access=registration}}</ref>。

1781年に妹が{{仮リンク|ドラマンズ銀行|en|Drummonds Bank}}の銀行家アンドルー・バークリー・ドラモンド(1833年没)と結婚したこともあり、夏にはドラモンドが所有する[[ハンプシャー]]の{{仮リンク|フォーリー (ハンプシャー)|en|Fawley, Hampshire|label=キャドランズ}}で過ごすことが多く、パーシヴァル自身も1786年10月にドラマンズ銀行で口座を開設した<ref name="Drummonds">{{Cite book2|language=en|last=Bolitho|first=Hector|author-link=ヘクター・ボリソ|last2=Peel|first2=Derek Wilmot|title=The Drummonds of Charing Cross|pages=100–101|publisher=George Allen and Unwin|date=1967|url=https://archive.org/details/drummondsofchari0000boli/page/100|url-access=registration}}</ref>。口座開設時点では年収が200ポンドだったため、年150ポンドのクレジットしか与えられなかった<ref name="Drummonds" />。以降も家計の問題がついてまわり、官職就任の決定にも影響を与えた<ref name="DNB" />。

== 注釈 ==
{{Reflist|group=注釈}}


== 出典 ==
== 出典 ==
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== 関連図書 ==
== 関連図書 ==
*{{Cite book2|language=en|title=Assassination of the Prime Minister: The Shocking Death of Spencer Perceval|first=Mollie|last=Gillen|author-link=モリー・ギレン|publisher=Sidgwick and Jackson|location=London|year=1972|isbn=978-0-283-97881-4|url-access=registration|url=https://archive.org/details/assassinationofp0000gill}}
*{{Cite EB1911|wstitle=Perceval, Spencer|volume=21|page=133}}
*{{Cite book2|language=en|last=Hanraham|first=David C.|title=The Assassination of the Prime Minister: John Bellingham and the Murder of Spencer Perceval|url=https://books.google.com/books?id=yF07AwAAQBAJ|date=November 2011|publisher=History Press|isbn=978-0-7524-7805-0}}
*{{Cite DNB|wstitle=Perceval, Spencer|volume=44|pages=376–382|last=Hamilton|first=John Andrew|author-link=ジョン・ハミルトン (初代サムナー子爵)}}
*{{Cite book2|language=en|last=Treherne|first=Philip|title=The Right Honourable Spencer Perceval|date=1090|publisher=T. Fisher Unwin|location=London|url=https://archive.org/details/righthonourables00trehrich|ol=251625W|ol-access=free}}
*{{Cite ODNB|id=21916|title=Perceval, Spencer|last=Jupp|first=P. J.|date=21 May 2009|orig-date=23 September 2004}}
*{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/perceval-hon-spencer-1762-1812|title=PERCEVAL, Hon. Spencer (1762-1812), of Elm Grove, Ealing, Mdx.|last=Thorne|first=R. G.}}
*{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/constituencies/northampton|title=Northampton|last=Thorne|first=R. G.}}
*{{Cite Nuttall|title=Perceval, Spencer}}
*{{Cite Nuttall|title=Perceval, Spencer}}

== 関連項目 ==
*{{仮リンク|パーシヴァル内閣|en|Perceval ministry}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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*{{OL author}}
*{{OL author}}
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2023年8月31日 (木) 12:39時点における版

スペンサー・パーシヴァル
Spencer Perceval
生年月日 1762年11月1日
出生地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国メイフェア
没年月日 (1812-05-11) 1812年5月11日(49歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス、ロンドン
出身校 ハーロー校
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 トーリー党

在任期間 1809年10月4日 - 1812年5月11日
国王 ジョージ3世
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スペンサー・パーシヴァル閣下Hon. Spencer Perceval KC, 1762年11月1日 - 1812年5月11日)は、イギリス政治家庶民院議員(在任:1796年 – 1812年)、法務次官英語版(在任:1801年 – 1802年)、法務長官(在任:1802年 – 1806年)、財務大臣(在任:1807年 – 1812年)、首相(在任:1809年 – 1812年)を歴任した[1]

弁護士と庶民院議員としての演説で名声を得た後、法務次官と法務長官を経て、第2次ポートランド公爵内閣で財務大臣に就任した[1]。財政政策に目新しいところはなく、議会で批判が少ない程度の内容だったが[2]、機転が利き、人気を得ていたため、小ピット派が分裂していた最中の1809年にポートランド公爵が辞任したときに組閣の大命が下された[1]。首相在任中はワルヘレン遠征英語版の失敗、摂政法問題、枢密院勅令英語版による貿易不況といった問題を乗り越え、内閣の基盤を固めたが、その矢先に暗殺された[1]。イギリス史上唯一の暗殺された首相である[3]

福音派を支持しており、これが宗教政策への態度に影響を与えた[2]

略歴

生い立ち

父の第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル英語版トマス・ハドソン画、1759年。
トリニティ・カレッジでの指導者ウィリアム・ロート・マンセル英語版、1815年ごろ。

アイルランド貴族第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル英語版(1711年2月24日 – 1770年12月20日)と2人目の妻初代アーデン女男爵キャサリン・パーシヴァル(1731年6月4日 – 1784年6月11日、チャールズ・コンプトン閣下の娘、第4代ノーサンプトン伯爵ジョージ・コンプトンの孫娘[4])の間の次男(異母兄を含めると七男)として、1762年11月4日にロンドンのオードリー・スクエア(Audley Square)にある父の邸宅で生まれた[5][1]。パーシヴァル家は弁護士や政治家、軍人を多く輩出した一族であり[6]、父もプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)フレデリック・ルイスの側近であったが、スペンサーが10歳のときに亡くなった[7]。貴族の次男以降で社会階級と比べて貧乏であり、父が政治家としてそれほど高評価ではなかった上、早くに亡くなったため、首相のような高位の官職の候補者とは考えられていなかった[8]

幼少期をチャールトンで過ごした後[1]、1774年から1779年までハロウスクールで教育を受けた[8]。ハロウスクールでは学内の賞をとり、「漫然たる読書」を避け、教科書を正確に理解したと教師から評価された[2]。1780年1月14日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1782年にM.A.の学位を修得した[9]。トリニティ・カレッジではウィリアム・ロート・マンセル英語版(のちブリストル主教英語版)とトマス・マシアス(Thomas Mathias)が指導にあたり、パーシヴァルの勉学心が評価された[2]

パーシヴァルは同時代の政治家では珍しくキリスト教福音派を支持しており[3]、『オックスフォード英国人名事典』ではその理由を学生時代の友人に帰した[2]。たとえば、ハロウスクールで知り合い、生涯の友人となったダドリー・ライダー英語版(のち第2代ハロービー男爵、初代ハロービー伯爵)も福音派の1人だった[2]。ケンブリッジ大学では数少ないが影響力のある福音派の人物と親しく、そのうちの1人がアイザック・ミルナー英語版[2](1785年にウィリアム・ウィルバーフォースを福音派に転向させたことで知られる[10])だった。千年王国説を信じたとされ、1800年にはフランス革命がカトリックへの罰として神から与えられ、世界が1926年に終わるとの考えを披露した[8]

弁護士として

生涯の友人サミュエル・ロミリー英語版トーマス・ローレンス画、1806年ごろから1810年ごろまでの間。

貴族の次男以降で収入が少なかったため[1]、1782年12月16日にリンカーン法曹院に入学、1786年に弁護士資格免許を取得した[9]ミッドランド英語版巡回裁判所で弁護士業を務め、文書偽造の案件での演説で名声を得てミッドランド巡回裁判所における一流な弁護士とされた[1][11]。弁護士業でパーシヴァルと知り合い、生涯の友人となったサミュエル・ロミリー英語版によれば、この時期のパーシヴァルは「学識が少なく、多くの問題に強い偏見を持っていたが、気性のよさ、人を引き付ける振る舞い、会話の活発さで知り合いを大いに喜ばせた」という[1]ホイッグ党の政治家ウィリアム・ウィンダムは1786年にパーシヴァルに出会い、傑出したキャリアを重ねるだろうと予想した[1]

1790年に議会が解散されると、1791年に当時進行中だったウォーレン・ヘースティングズの弾劾裁判英語版に関するパンフレットを、1792年に急進主義への対抗策に関するパンフレットを匿名で出版した[1][2]。パンフレットが小ピットの注目を浴びたことでパーシヴァルは1792年のトマス・ペイン裁判、1794年のジョン・ホーン・トーク英語版大逆罪裁判英語版で政府側の検事団の1人に選ばれた[注釈 1][1]。また兄が1791年に一度申請して失敗したが[8]、1794年に兄の影響力[注釈 2]により海軍卿英語版第2代チャタム伯爵ジョン・ピット英語版から海軍本部委員会の顧問弁護士への任命を受けた[1]

1795年末に小ピットよりアイルランド主席政務官英語版への就任を打診された[1][8]。パーシヴァルは1791年に兄の影響力[注釈 2]により年収119ポンド相当の閑職を得ており、1795年には弁護士業も含めて年収1,000ポンドだったが、このときすでに子女を5人ももうけており、家計の負担が重かったため、アイルランド総督第2代カムデン伯爵ジョン・プラット英語版と海軍卿の第2代スペンサー伯爵ジョージ・スペンサーは将来の閑職任命をちらつかせてパーシヴァルに就任を許諾させようとした[8][2]。しかしパーシヴァルは弁護士業で金を稼ぐことを優先し、1796年1月2日に就任を辞退した[1]

1796年2月4日に勅選弁護士英語版に選ばれた[8]大法官初代ラフバラ男爵アレグザンダー・ウェッダーバーンは勅選弁護士の人数がすでに足りていると考えたが、パーシヴァルの才能を高く評価して人数を増やしたという[1]。2月26日にはリンカーン法曹院の評議員英語版に選出された[2][12]

1796年以降は政治家としての活動も加わるが、弁護士業からの収入は上昇の一途をたどり、1799年には1,504ポンド、1800年には1,807ポンドになり、最終的には毎年4、5千ポンドの収入をもたらすに至った[1](『英国議会史』では1804年には10,000ポンド近くの収入だったとしている[8])。また政界で多忙になったため、1801年の法務次官就任を機に王座裁判所英語版での仕事を受けなくなり、大法官府裁判所英語版に絞った[1]。このときに費用を倍にしたことで収入が増え、家計の問題が一旦は解消された[8]。大法官府裁判所での仕事では相手の代理人をロミリーが務めることが多かったという[1]

1807年に財務大臣に就任すると、パーシヴァルはしぶしぶ弁護士業を諦めることとなった[3]

政界入り

1796年4月にノーサンプトン選挙区英語版選出の現職庶民院議員だったコンプトン卿チャールズ・コンプトン(のち第9代ノーサンプトン伯爵、初代ノーサンプトン侯爵)が爵位継承で貴族院に移籍したとき、息子スペンサーがまだ子供だったため、議席はいとこにあたるスペンサー・パーシヴァルに譲られた[13]。直後の1796年5月の総選挙では選挙戦があったものの、パーシヴァルは当選確実で、残りの候補2名が2議席目を争う構図となり、実際にもパーシヴァルが720票でトップ当選した[13]。その後、ノーサンプトン選挙区では20年ほど選挙戦がなく、パーシヴァルは1812年に死去するまで1802年1806年1807年の総選挙において無投票で再選した[13]

議会では1797年2月にクエーカー解放法案に反対票を投じた後[8]、1797年5月に初演説し、刑法で陸軍・海軍内部での不満扇動を違法とする小ピットの提案に賛成した[1]。パーシヴァルはフランス革命戦争の遂行を強く支持し、小ピットの内政における強圧的な政策も支持したが、演説は気取った態度ながら簡潔で、小ピット、リチャード・ブリンズリー・シェリダンチャールズ・ジェームズ・フォックスなど与野党の重鎮から称えられた[1]。『英国議会史英語版』によれば、パーシヴァルの演説の草稿は現存しており、1797年5月の日付が記載されているものはチャールズ・ジェームズ・フォックス反逆法廃止法案への攻撃など複数存在するが、実際に5月に演説があったと報じられたのは前述の1件だけだった[8]。また1798年1月4日の所得税法案審議において、フォックスと第5代準男爵サー・フランシス・バーデットフランス革命戦争をめぐり政府を批判したとき、フォックス率いるホイッグ党の不登院戦略と、国家が危機に陥っているときに改革を要求することを批判した[2]。この演説は同時代では小ピットとグランヴィル・ルーソン=ゴア(のち初代グランヴィル伯爵)に賞賛され、後世では『オックスフォード英国人名事典』が「実質的には初演説」との評価を、『英国議会史』が「この演説こそパーシヴァルの名声を打ち立てた」との評価を下した[2][8]。このようにパーシヴァルは議会活動を経て影響力が増し、1798年にはトリニティ・カレッジでの師だったウィリアム・ロート・マンセル英語版をトリニティ・カレッジ学寮長につけることに成功、自身も同年8月に軍需局総監英語版初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリスの後押しを受けて軍需局付き弁護士(年収300ポンドの官職[8])に任命され[1][2]、1799年にシャーロット王妃の法務次官への任命を受けた[3]

演説の回数も徐々に増え、所得税法案(1798年12月と1800年4月)、ホラント戦役英語版エジプト戦役での戦略(1800年2月と1800年11月)、アイルランド王国グレートブリテン王国合同法(1799年2月)を支持した[2][8]。ただし、合同法に関しては支持を与えつつもカトリック問題の解決策にはならないと判断している[8]

法務次官、法務長官として

アディントン内閣期

1801年から1804年までの首相ヘンリー・アディントンウィリアム・ビーチー画、1803年ごろ。

1801年にカトリック解放問題をめぐり小ピットが辞任したが、パーシヴァルは小ピットとともに辞任することを選ばなかった[2]。小ピットの後任として組閣したヘンリー・アディントンは議会弁論で内閣への支持が不足していると感じ、1801年2月にサー・エドワード・ロウ英語版法務長官に、パーシヴァルを法務次官英語版に任命した[1][8]。このような任命では同時に騎士爵に叙することが伝統になっていたが、パーシヴァルは伯爵の息子だったため騎士爵への叙爵を辞退した[1]。この時期には小ピットの後継者と目される人物の1人(ほかにはジョージ・カニングカースルレー子爵ホークスベリー男爵がいた)に数えられた[2]

1802年初にロウが王座裁判所首席裁判官英語版に就任すると、パーシヴァルは同年4月14日に法務長官に昇進した[1][14]。法務長官としてはエドワード・デスパード英語版大佐[注釈 3]大逆罪で、ジョン・ぺルティア(John Peltier)をナポレオン・ボナパルトへの名誉毀損罪で起訴し、いずれも1803年に有罪判決となった[1]。1804年5月24日にはウィリアム・コベットの『週刊政治録』(Political Register)における文章(作者Juverna)をハードウィック伯爵アイルランド総督)とリーズデイル男爵アイルランド大法官英語版)への名誉毀損としてコベットを起訴し、Juvernaが裁判官ロバート・ジョンソン英語版であると判明すると11月23日にジョンソンも起訴した[1]。コベットもジョンソンものちに有罪となった[1]。同年に王座裁判所首席裁判官への就任と叙爵を打診されたが辞退している[1]

ヘンリー・ブルームの評価するところでは、アディントン内閣期(1801年 – 1804年)のパーシヴァルはほぼ一人の力で庶民院における小ピット、フォックス、ウィリアム・ウィンダムとそれぞれの派閥からの政権批判を守り切ったという[1]。実際にアディントン内閣末期の1804年4月23日ではフォックスが長演説で内閣を批判した後、国防委員会の設立を動議したが、パーシヴァルの演説の結果、小ピット、カニング、フォックス、ウィルバーフォース、シェリダン、ウィンダム、ジョージ・ローズ英語版ロバート・ダンダス閣下英語版といった有力議員が全員賛成票を投じたにもかかわらず、動議が賛成204・反対256で否決された[15]。ただしパーシヴァル自身はアディントン内閣期に成立したアミアンの和約に反対しており、マルタケープ植民地を軍事基地として保有すべきと考えた[8]

第2次小ピット内閣期

小ピットは首相に返り咲くと、まずフォックスとの連立内閣交渉に入ったが、国王が連立内閣を拒否したため、ピットはパーシヴァルの支持を確保しようとした[15]。パーシヴァルは辞退して法務長官を退任するつもりでいたが、パーシヴァルの友人第2代ハロービー男爵ダドリー・ライダー英語版が説得を試み、パーシヴァルはカトリック解放に反対する自由を留保して留任に同意した[1]

小ピット内閣期では現代の労働組合の雛形といえる団体への起訴を、政府が労使問題で常に雇用者側に立つという確約をすべきでないとして拒否した[1]。議会では頻繁に演説し、児童労働規制とウィリアム・ウィルバーフォース奴隷貿易廃止運動を支持、議会改革に反対した[2][15]

グレンヴィル内閣期

1806年1月に小ピットが死去すると、パーシヴァルは法務長官を辞任した[1]ウィリアム・グレンヴィル率いる挙国人材内閣英語版には野党の立場をとったが、グレンヴィルの組閣時にはグレンヴィルの持つ財務省監査役という官職を信託(代理人)に預けることでグレンヴィル組閣への障害を取り払った[1]

1806年の会期では野党側が長演説の戦術をとり、パーシヴァルも(『英国議会史』が集計したところでは)約70回演説し、チェルシー病院英語版法案やウィリアム・ウィンダムの軍制改革を批判した[8]。同年7月に第2代ラウザー子爵ウィリアム・ラウザー英語版(のち初代ロンズデール伯爵)の邸宅で行われた野党会合ではパーシヴァルが不在ながら将来の内閣における財務大臣庶民院院内総務に内定され、カニングとカースルレー子爵も同意した[8]。このとき、ホークスベリー男爵と第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストはパーシヴァルが首相に就任しても反対しないと表明するほどだった[8]

9月にフォックスが死去すると、グレンヴィルはパーシヴァルに入閣を要請したが、拒否された[1]。パーシヴァルは野党から自分1人だけ入閣することはない(野党から広く入閣させるべき)と考え、入閣した場合の役職名すら聞かなかったという[8]。その後、1807年1月5日に講和交渉の失敗を演説で批判し[8]、3月5日の演説で内閣のカトリック解放推進を批判して、内閣崩壊の一因になったが[1]、パーシヴァル自身は倒閣するつもりがなく、私的な助言では内閣に国王との妥協を促した[8]

財務大臣として

任命をめぐる交渉

ポートランド公爵を首班とする第2次ポートランド公爵内閣が成立すると、パーシヴァルの入閣は当然と目されたが、どの官職に就くかは不明確だった[1]。『オックスフォード英国人名事典』によれば、小ピットの後継者と目された4人のうち、国王と同じぐらいカトリック解放に反対したのはパーシヴァルだけだったため、ほかの3人より有利な立場にいたという[2]。パーシヴァル自身は法務長官を続投しつつ弁護士業での収入を増やそうとし、3月20日には財務大臣庶民院院内総務(当時は財務大臣の年収が約1,300ポンドで、両者の合計で年収3,700ポンド)の任命を辞退した[1][8]。『英国議会史』では内務大臣と庶民院院内総務の兼任(合計で年収6,000ポンド)ならば頷いたかもしれないが、それでも弁護士業を続けたほうが年収が高いと判断した[8]。また復帰権による閑職取得も嫌い、調整は難航した[8]

ポートランド公爵はパーシヴァルを強引に説得したくなかったが、ホークスベリー男爵が国王に対し、パーシヴァルが「イングランドの旧家出身で、カトリック解放に関して陛下の意見とまったく同じ」と推薦したこともあり、結局財務大臣への就任に同意、また収入への足しとしてランカスター公領大臣を終身で務めることが約束された(合計で年収4,000ポンド)[1][2][8]。ランカスター公領大臣の終身任命は前例があったものの、庶民院で大反対に遭い、終身任命への反対決議が25日に208対115で可決された[1]。そのため、ランカスター公領大臣の終身任命は撤回され[1]、パーシヴァルは1807年3月30日にランカスター公領大臣に、31日に財務大臣に任命された[16]

直前に1807年奴隷貿易廃止法英語版が可決されたが[8]解散総選挙ではグレンヴィル内閣の人気が凋落していたこともあり与党が大勝した[1]

就任直後の不調

財務大臣に就任した直後のパーシヴァルによる議会演説はパーシヴァルの盟友を失望させた[1]。というのも、それまでの演説の裏には細部にわたる準備があったが、財務大臣としての公務で多忙になったパーシヴァルにはそのような準備をする時間がなく、パーシヴァルには準備なしで流暢な演説ができるほどの国政に関する知識がなかった[1]。またこの時期にベルサイズ・パーク英語版からクラパム英語版に転居するなど私生活でも多忙だった[8]。その結果、パーシヴァルは演説で緊張してどもり、その内容も弱かった[1]

休会中にポートランド公爵の要請でダウニング街10番地に転居して私生活が落ち着いたことで、議会が再開された1808年1月には議論を主導できるようになり、議会で1807年のコペンハーゲン砲撃を擁護した[8]。1809年3月8日から9日にかけてのメアリー・アン・クラークの陸軍売官スキャンダルをめぐる演説にいたっては庶民院議長チャールズ・アボット英語版から「3時間にわたる見事な演説」(masterly speech of three hours)と賞賛され、のちに出版された[1]

予算案

1808年と1809年の予算案では新しい税を徴収せず、代わりに支出を減らし、低い利率で国債を発行して支出を支えた[2]。ただし、新しい税を徴収できるほど経済に余裕がないというのが主流の見方であり、国債発行も財務委員会の助言通りだったため、予算案での施策に目新しいところはなかった[2][8]。また1806年以来のナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖への対抗として、1807年に発された対仏貿易およびフランスの同盟国との貿易を禁じる枢密院勅令英語版を起草したが、その内容の多くがジェームズ・スティーブン英語版が1805年に出版したパンフレットと同じだった[1][2]。パーシヴァルは財務畑では新人だったが、このように予算案については議会であまり批判されなかった[8]

閑職改革

この時期、庶民院の財政委員会が提出した報告に基づき、政府が与える年金、閑職、庶民院の議席などのパトロネージが多すぎるとして、閑職改革を求める声が野党から上がった[2]。そのまま全廃すると政権が崩壊することは明らかだったが、パーシヴァル自身が閑職をそれほど擁護していなかったこともあり、野党から提出された改革案には直接反対しなかった[2]。その代わり、庶民院議員が持つ閑職と年金をすべて公開する法案から「庶民院議員が持つ」の条件を外して報告書の完成を遅らせ(首相就任後の1810年夏に発表)、庶民院議席の購入を違法化する法案(1809年)も修正で弱体化した形で可決させた[2]

ヘンリー・バンクス英語版が提出した、官職への復帰権(現職の死後、即座に官職に就任する権利)の廃止法案については進退両難の局面に陥った。1807年にはじめて提出されたときは兄のアーデン男爵(閑職で年収38,000ポンドを得ていた)の助力を借りて貴族院で否決させたが、1808年の再提出では可決させるつもりにもかかわらずアーデン男爵が協力を拒否、国王も中立にとどまったため再度否決された[8]。これによりパーシヴァルは議会で野党から責められ、1809年にバンクスと協議して1年間の時限立法を可決させた[8]。バンクスは恒久法の成立に努力したが、パーシヴァルとアーデン男爵に阻まれ、1812年に再度時限立法を可決させるにとどまった[8]

陸軍売官問題

グウィリム・ロイド・ウォードル英語版アーサー・ウィリアム・デヴィス画、1809年。

半島戦争中の1808年にシントラ協定英語版(フランス軍がポルトガルから撤退することを許可した、英仏間の協定)が締結されると、世論はフランス軍を逃がしたとして激怒した。カニングはイギリス軍の指揮官アーサー・ウェルズリーをスケープゴートにすべきと主張したが、パーシヴァルとカースルレーが反対、1809年1月から2月にかけて議会でウェルズリーを擁護した[8]

しかし陸軍をめぐる危機は去らず、1月末には急進派英語版グウィリム・ロイド・ウォードル英語版ヨーク=オールバニ公爵フレデリックの愛人メアリー・アン・クラークによる陸軍売官を告発し、ヨーク公も共犯であると主張した[17]。2か月近くの審議の末、3月9日にウォードルがヨーク公を陸軍最高司令官英語版から解任する動議を提出した[17]。パーシヴァルはヨーク公自身が売官を行っていないとし、解任より売官問題自体を解決すべきと主張して、ウォードルの動議を15日に賛成123・反対364で否決させたが、ヨーク公の無罪放免は17日に賛成193・反対279で否決された[17]。クラークが審議中に売官を認め、さらにヨーク公とクラークの間の手紙が公開されてヨーク公に対する世論が厳しくなったこともあり、パーシヴァルは国王に対しヨーク公が辞任しなければさらなる面倒ごとが起きると警告、ヨーク公は翌日に辞任した[8][17]

パーシヴァルはヨーク公の辞任が一時しのぎであると約束していた。1809年末にウォードルがクラークの家の備え付け費用の支払を約束して、クラークに証言させたことが露見、1810年夏にクラークが金のために証言したことを認めると、ウォードルは完全に信用を失い、1811年6月11日にヨーク公の復職が可決された[17]。ウォードルは1812年に議会を去り、1815年ごろに借金取りから逃れるために外国へ逃亡、1833年にトスカーナ大公国フィレンツェで死去した[17]

第2次ポートランド公爵内閣崩壊

ポートランド公爵内閣では外務大臣ジョージ・カニング陸軍・植民地大臣カースルレー子爵が犬猿の仲であり、1809年夏には内閣が倒れるほどの事件が起こった[1]。パーシヴァルは最初はこのことについて知らず、6月の閣議でカニングがポートランド公爵にカースルレー子爵を解任させようとしたことを知ったほどだったが、それ以降はカースルレーに肩入れして、カースルレーには自身の処遇について知る権利があると主張しつつ、カースルレーが計画したワルヘレン遠征英語版が終わるまで解任を延期すべきと主張した[1]。特にカースルレーに知らせないまま解任した場合は自身も辞任すると脅した[2]。ただし、パーシヴァルはカースルレーには直接連絡せず、カニングとも友好な関係を保った[1]

8月末にポートランド公爵が卒中を起こして職務を執れなくなったとき、パーシヴァルはカニングに対し、自身が財務に関する責任をとれる限り、カニングやほかの閣僚が受け入れられる首相であれば自身も従うと述べ、第2代ハロービー男爵ダドリー・ライダー英語版を首相に勧めた[1][2]。しかしカニングは首相が庶民院議員であるべきと考え、この条件に合う人選はパーシヴァルとカニングしかいなかった[1]。またカニングはパーシヴァルが首相の場合でも入閣しないと述べ、これを聞いたリヴァプール伯爵(1808年にホークスベリー男爵が爵位を継承)はカニングの首相の目が消えたと述べた[8]。結果的にはより機転の利き、人気もあるパーシヴァルが選ばれ[1]、カニングは9月12日に首相職を諦めた[8]

首相就任

組閣

ロミリーによれば、パーシヴァルの組閣は困難だった[1]。小ピット派はすでに分裂しており、トーリー党の重鎮はカニングから遠ざかろうとした[1]。カースルレーはカニングと敵対した[1]。シドマス子爵(アディントンが1805年に叙爵)の助けを求めてもかえって庶民院で票を失う[1]。ポートランド公爵内閣の閣僚は野党のグレンヴィル男爵や第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイに連立内閣を打診すべきとの助言を与え、国王ジョージ3世も不本意ながら許可を与えたが、グレンヴィルにもグレイにも拒否された[1]。パーシヴァルは財務大臣の重圧をだれかに押し付けようとしたが、打診した候補6人(カニング、ニコラス・ヴァンシッタート英語版パーマストン子爵ロバート・ペンバートン・ミルンズ英語版、ローズ、チャールズ・ロング英語版)全員に辞退され[8][3]、結局1809年12月2日に内閣名簿を完成したときには兼任せざるを得なかった[1]。ただし首相就任にあたり財務大臣としての賃金を放棄しており、のちに議会で野党からの批判をかわすためのカードとして使った[8]

内閣は発足時点で弱い部類とみなされた[1]。議会では野党の勢力が根強く、ポートランド公爵が辞任する前もカースルレーとカニングの助力を借りてようやく抑え込めた程度だったが[1]、新内閣の閣僚のうち庶民院議員はパーシヴァルと内務大臣リチャード・ライダー英語版の2名だけと議会基盤が弱かった[8]。かろうじて国王がパーシヴァルを支持したことで一旦は発足できた[8]

内閣名簿は下記の通り[18]

ナポレオン戦争の戦況

ナポレオン戦争は順調とは言えず、ワルヘレン遠征英語版が失敗に終わり、半島戦争ではアーサー・ウェルズリータラベラ・デ・ラ・レイナの戦い英語版で勝利したもののすぐに撤退に追い込まれた[1]。パーシヴァルは1810年1月にワルヘレン遠征を擁護するはめになったが、ワルヘレン遠征を率いた軍需局総監の第2代チャタム伯爵ジョン・ピット英語版が報告を内閣に届けず、国王に直接届けたことを追及され、パーシヴァルがチャタムを辞任させる形で面子を保ち[1]、『英国議会史』はチャタムの辞任で内閣が「息を吹き返した」と評した[8]。その後、予算案を通すことに成功したが、ヘンリー・バンクス英語版の閑職改革法案をめぐる採決で敗北した[1]

このようにして、パーシヴァル内閣は1810年6月21日の議会休会まで持ちこたえたが、状況は予断を許さなかった[1]。この会期ではシドマス派とカニング派の支持が不可欠だったが、バサースト伯爵は開会早々内閣支持を取りやめ、カニングも組閣時のいざこざで内閣を支持せず、会期の終わりには野党に転じた[1][2]。パーシヴァルはシドマスとカースルレーに入閣を打診して断られ、カニングに至っては9月にそのようなことを彼に求めないようにとくぎを刺した[1]。このほかにもカニングとカースルレー、カニングとウィリアム・ハスキソンの同時入閣案もあったが、前者はカースルレーに拒否され、後者はパーシヴァルがハスキソンの財政政策を支持しなかったことで実現しなかった[8]。このほか、議会のスコットランド派閥を持つ初代メルヴィル子爵ヘンリー・ダンダス英語版との交渉も不調に終わった[2]

摂政法問題

摂政王太子ジョージトーマス・ローレンス画、1814年ごろ。

1810年10月、国王ジョージ3世の精神障害が再発した[1]。パーシヴァルは相次ぐ休会動議で国王の回復を待とうとしたが、議会がしびれを切らしてきて、何かしらの手を打つ必要があった[8]。パーシヴァルが摂政王太子を務めてきたプリンス・オブ・ウェールズ、ジョージ(のちのジョージ4世)と対立したこともあり、12月20日に決議案を提出した[1]。この決議案は1788年の摂政法危機で小ピットが提出して可決させたものと同じであり、摂政王太子の権限を制限するものであったため、ホイッグ党は前回と同じく反発し、王太子が摂政を務める権利は剝奪できないものであると主張した[1]。王太子らジョージ3世の息子たちはこぞって抗議文を出したが、パーシヴァルは動じず、31日に摂政法案を提出した[1]。『英国人名事典』の評するところでは、パーシヴァルは弁論ではカニング、カースルレー、ウィルバーフォースなどの論敵よりすぐれていたが、議会での劣勢は覆られず、法案は野党の修正動議を含めた形で可決された[1]。一方、『オックスフォード英国人名事典』では野党の戦略ミスと断じ、否決にできたところを紙一重で可決されてしまったと評している[2]

王太子ジョージは摂政に就任するとパーシヴァル内閣を罷免するつもりであり、新内閣の閣僚リストを準備したほどであった[1]。この新内閣で重要なポストに就く予定のグレイ伯爵は就任の条件として、王太子が政治問題について内閣にいない側近(リチャード・ブリンズリー・シェリダン第2代モイラ伯爵フランシス・ロードン=ヘイスティングズなど)に諮問しないよう約束させようとしたが、交渉は失敗に終わった[1]。さらにジョージ3世に回復の可能性があり、回復すると新内閣を罷免するだろうというのが大方の予想だったため、政権交代についても王太子が思いとどまる形で実現せず、1811年2月4日に王太子がパーシヴァルに述べた「政権交代のような心をかき乱す出来事で国王の回復を妨げたくない」が表向きの理由となった[1]。王太子が表立った対立を回避したことで、議会での王太子派が与党に回ることとなり、パーシヴァル政権は大きく安定した[1]

宗教問題

パーシヴァルはカトリック解放に反対しており[1]、首相就任以前にも1805年5月、1807年3月など複数回反対演説をした[8]。『オックスフォード英国人名事典』によれば、思想面では千年王国説を信じていたことと頑迷な偏見を持っていたこと、政治現実の面ではカトリック解放を実施すると国教会が弱体化するが、カトリックが多数派のアイルランドを満足させるには至らず実利が少ない、といった理由が挙げられる[2]。また実際に議会でカトリック問題が議論されたとき、王太子がカトリック解放に反対したことがパーシヴァルに有利に働いた[2]

1808年にカトリック解放に恒久的に反対するものではないと述べたが、『英国議会史』ではカトリック問題の解決策にアイルランド警察の改革とアイルランド国教会の教会を増やすことを挙げるあたり、ただの頑迷であるとこき下ろした[8]

パーシヴァルは一般的な福音派と違いイングランド国教会を支持したため、その改革を推進し、聖職者の俸給を上げ、不在聖職者を減らす施策を行い、工業都市での教会建設を推進した[2]

閣内の動揺

外務大臣初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリー

野党の脅威は去ったが、今度は閣内の対立が表面化した[1]外務大臣初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリーとパーシヴァルが対立したのであった[1]。すなわち、ウェルズリーにとってパーシヴァルは半島戦争中のイギリス軍を餓死させようとしており、パーシヴァルにとってのウェルズリーは偏見に満ち、金づかいが荒かった[1]。1811年秋にはウェルズリーと摂政王太子の間で政策の方針転換と政権交代に関する意見交換があり、1812年初に摂政法における摂政への制限が期間満了するとともに摂政王太子がパーシヴァルを更迭してウェルズリーを首相につけ、ウェルズリーは見返りとして王室費を増やすという計画が議論された[1]。パーシヴァルには王室費を増やすつもりがなく、閣議で王室費増額に関する決定が下されるときはウェルズリーが辞任を決めた[1]。その少し前に海軍卿英語版チャールズ・フィリップ・ヨーク英語版もほかの理由で辞任していたが、パーシヴァルはウェルズリーの後任にカースルレーを、ヨークの後任に第2代メルヴィル子爵ロバート・ダンダス英語版を任命して、内閣改造という形で事態をおさめた[1]。ウェルズリーは自身の辞任でパーシヴァルに圧力をかけるつもりだったが、あっさりと辞任を受諾されて当てが外れた[8]

しかしこの内閣改造によって政権は少なからず動揺し、閑職改革をめぐる採決で与党が敗北することとなった[1]。パーシヴァルは1811年8月に摂政王太子からの圧力を受けて、王太子の秘書官ジョン・マクマホンを実入りのいい閑職である士官寡婦年金主計官に任命したが、マクマホンと王太子の関係は1812年1月から2月にかけて庶民院で批判的に取り上げられた[19]。庶民院ではこの任命をめぐり決議案が3度提出されており、1度目は大差で否決されたが採決ごとに票差が縮まり、3度目は115票対112票で与党が敗北した[19]。決議案の可決を受けたマクマホンは辞任した[19]

1807年の対仏貿易およびフランスの同盟国との貿易を禁じる枢密院勅令英語版についても譲歩を余儀なくされた[1]。この勅令の効果については、フランスが影響を受けず、イギリスの外国貿易だけが損害を被っているとする声が途絶えなかった[1]。パーシヴァルは諸手を挙げて枢密院勅令を支持したわけではなかったが、ナポレオン戦争により必要な施策として擁護、1812年3月にヘンリー・ブルームが提出した調査決議案を否決させたが、全国の工業地帯からの請願は数多く、4月には譲歩して委員会設立に同意せざるを得なかった[1]

これらの政策以外では内閣への支持が回復傾向にあり、1812年4月にシドマス子爵を枢密院議長として入閣させ、シドマス派を与党に回らせたことで盤石な内閣とみられた[2][8]

暗殺

パーシヴァル暗殺を描いた絵
右端で取り押さえられているのが暗殺を実行したジョン・ベリンガム

1812年5月11日の16時半、庶民院の枢密院勅令委員会が証人喚問を開始した[1][20]。このとき、出席していた議員はわずか60名であり[20]、パーシヴァルが出席していなかったためブルームが抗議し、人に行かせてパーシヴァルを呼んだ[1]。パーシヴァルは呼びに応じて官邸のダウニング街10番地から歩き、17時15分ごろに庶民院のロビーに入った[20]。そこへジョン・ベリンガム英語版がやってきて、パーシヴァルは至近距離から銃弾を浴びた[20]。パーシヴァルは前方によろめいたのち倒れ、「私は殺された」(I am murdered!)と叫んだ[20]。現場にいたフランシス・フィリップス(Francis Philips)と庶民院議員ウィリアム・スミス英語版はパーシヴァルをなんとか議長席に座らせたが[20]、パーシヴァルは医者が到着する前に死亡した[1]

ベリンガムは精神障害者であり、昔ロシアで逮捕されたとき、ロシア法で裁かれるところを在サンクトペテルブルクイギリス大使に介入を拒否された[1]。帰国後、パーシヴァルに対し補償を申請したが、これが拒否されたことでパーシヴァルに対し恨みを持っていた[1]。そして、数週間にわたって庶民院を観察したのち、暗殺を実行に移した[20]。ベリンガムは5月15日にオールド・ベイリー英語版で裁判にかけられ、精神障害の申し立てを却下された結果5月18日に絞首刑で処刑された[1]。全国に広まったラッダイト運動もあり、暗殺事件の直後は上流社会ではイギリス革命が勃発かと恐れられ、ベリンガムの身柄をウェストミンスターからニューゲート監獄に移送するときも陸軍の部隊が駆り出されたほどだったが、ベリンガムの逮捕から裁判・処刑までわずか1週間だったこともあり、ベリンガムの名前はたちまち忘れ去られた[21]

後任の首相は内閣からリヴァプール伯爵が推薦された[22]。直後に庶民院の採決で敗北して総辞職したが、ほかに組閣できた人物はおらず、6月8日にリヴァプール伯爵内閣の留任が決定された[22]。ノーサンプトンでの議席はコンプトン家に戻され、パーシヴァルの初当選時には子供だったコンプトン卿スペンサー・コンプトンが5月26日の補欠選挙で当選した[13]

死後の記念

ウェストミンスター寺院にあるパーシヴァルの記念碑、2022年撮影。

5月16日[1]、パーシヴァルの遺体はチャールトン聖ルカ教会英語版にある家族納骨所に埋葬された[23]。聖ルカ教会にはパーシヴァルの胸像が現存する[23]

死去時点でドラマンズ銀行英語版の口座には106ポンド5シリング1ペニーしかなく、妻ジェーンに与えられた[24]。この状況を知った庶民院はパーシヴァルの家族に5万ポンドを与え、さらにパーシヴァルの妻に2,000ポンドの年金を与えた[1]。この年金は2人の長男が相続でき、相続した場合は3,000ポンドに増額されるとした[1]。年金は世代にわたって相続され、20世紀にはパーシヴァルの孫娘の息子にあたるサー・エドワード・マーシュ英語版が受給したことが知られている[24]。庶民院は年金のほか、ウェストミンスター寺院で記念碑を立てることも可決した[1]。この記念碑は1814年に発注され、リチャード・ウェストマコットの手で完成して1822年12月21日に除幕式が行われた[23]

ロンドンのノーサンプトン・スクエア英語版にはパーシヴァルに由来するパーシヴァル・ストリートが現存する[25]

娘婿スペンサー・ホレーショ・ウォルポールの息子で歴史学者のスペンサー・ウォルポール英語版は1874年にスペンサー・パーシヴァルの伝記を出版した[11][26]

2014年にはマイケル・エリス英語版の提唱でウェストミンスター宮殿のセント・スティーブンス・ホールにてパーシヴァルの記念碑が建てられた[27]

人物・評価

背が低くやせており、肌は色白だった[1]初代エルドン男爵ジョン・スコット英語版(のち初代エルドン伯爵)からは「リトルP」(Little P)のあだ名で呼ばれた[2]。パーシヴァルは黒い服を着ることで色白い肌との対比を強調し、熱心な雰囲気がにじみ出るようにした[2]。青年期に福音派に触れたことで敬虔なキリスト教徒になり、家族を大事に扱い[3]、礼拝に欠かさずに行き、安息日を厳守し、ギャンブル、大酒飲み、狩猟、不倫を批判、奴隷制度の廃止を支持した[1][2]。『英国議会史』に至っては名声に「汚点がない」と評した[8]。『オックスフォード英国人名事典』によれば、パーシヴァルの死去時点で形成されていた、パーシヴァルの性格のイメージは後年の歴史研究でもほとんど変わらなかった[2]。生前に肖像画が描かれたことがなく、現存する同時代の肖像画は死後にデスマスクから描かれたものである[28][24]

同時代の人物からは概ね賞賛されており、リヴァプール伯爵がウェリントンへの手紙で評したところでは「どのような大臣よりも庶民院で権威を確立しており、唯一の例外が小ピット」だという[20]第4代ダドリー=ウォード子爵ジョン・ウォード英語版(のち初代ダドリー伯爵)はヘレン・ダーシー・ステュアート英語版への手紙でパーシヴァルを「フォックス氏の死後、議会で最も有力な人物」と評し、演説家としては小ピットの雄弁には及ばなかったものの、演説時の機敏さにかけては小ピットに負けなかったとしている[2]。『オックスフォード英国人名事典』はこの評価も後年の研究で覆らなかったとしている[2]

19世紀末の『英国人名事典』が評するところでは、パーシヴァルが弁論と行政の手腕を有し、首相として頼れる味方がほとんどいなかったものの、ほぼ一人の力で政敵を制し、ナポレオン戦争を遂行した[1]。戦争対策に関してはウィリアム・フランシス・パトリック・ネイピア英語版がパーシヴァルを厳しく批判しており、彼によればウェリントンが補給の不足について不平を言ったことがあったという[1]。しかし、ウェリントンは1835年にパーシヴァルの息子に対し、そのような不平を言ったことはなく、内閣からの支援を受けたと述べ、チャールズ・グレヴィル英語版に対してはネイピアがパーシヴァルに不公平な批判をしたと述べ、自身が半島戦争を戦っていたときは確かに資金が不足していたが、それは本国政府のせいではないとも述べた[1]。『英国人名事典』はこれらの言葉を挙げてパーシヴァルの戦争対策を擁護したが、カトリック解放への反対については「賢明でない」とし、財政政策も「よくて当座しのぎ」と評した[1]。性格については頑固と評し、「パーシヴァルの言葉は閣僚にとっての法律になり、より専門的な経験を有し、賢明な判断をしたリヴァプール伯爵の意見は却下された」とした[1]。総評としては粘り強さをもって頻繁な政権交代を避け、頑固さをもって戦争を戦い抜いたが、ナポレオン戦争という画期においてイギリス首相に必要な知識も非凡な才能も有してるとはいいがたかった[1]カトリック解放問題をめぐる政敵のヘンリー・グラタン英語版も同様な評価を下しており、軍艦にたとえて「彼は戦列艦ではないが、大砲を多く有し、堅固でどのような天気でも航海できる」と評した[2]

デニス・グレイのスペンサー・パーシヴァル伝(1963年)ではパーシヴァル暗殺の数日前にナポレオン・ボナパルト1812年ロシア戦役を開始してパリを発っており、パーシヴァルが暗殺されていなければ「ワーテルローの戦いのときでも権力を握っていたんだろう」と評している[29]。さらに「小ピットの死去時点ではまだ嵐が吹き荒れており、パーシヴァルこそが国という船を港の入り口へと運ばせた」と高評価を下した[29]

『英国議会史』(1986年)ではハロービー以外の同僚を全面的に信用することがなく、自身の派閥も育てずに自分の演説だけで議会を説得したと評した[8]。また、1809年の首相就任に前向きではなかったと一般的にはみられるが、実際には自ら辞任して他人に譲るつもりはなかったとも評している[8]

『オックスフォード英国人名事典』(2004年)はパーシヴァルの視野の狭さを批判しており、ロンドン以外の世界を自分の目で見ることがほとんどなく、1790年代に一度だけチェシャーナッツフォード英語版(ロンドンから北西約250キロメートル)に行った程度でそれより遠い場所には行ったことがないとされる[2][30]。同著はこの見識の少なさにより、パーシヴァルが小ピットの政策に代わる新しいものを出せなかったと推測した[2]。また戦争遂行優先の財政政策が半島戦争、ひいてナポレオン戦争全体における対仏大同盟軍の勝利につながったと評価している[2]

21世紀初の歴史学者アーサー・バーンズ英語版国教忌避者が政権の非国教徒に対する反動政策を恐れたが、フランス革命で大きな変革が警戒されたこと、パーシヴァルの政治的野心のなさ、在任中に暗殺されたこと、という3つの理由で非国教徒への反動政策が実施されなかったとしている[3]

家族と私生活

ジェーン・ウィルソンの肖像画。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1804年。

1790年8月10日、ジェーン・ウィルソン(Jane Wilson、1844年1月26日没、第6代準男爵サー・トマス・スペンサー・ウィルソン英語版の娘)と結婚、6男6女をもうけた[5]。義父はパーシヴァルの貧しさから2人の結婚に反対したが、ジェーンがパーシヴァルと同じく敬虔だったこともあり2人の仲は良好で、一家は毎日の祈りを一緒にしたという[2]

  • ジェーン(1791年10月19日 – 1824年1月13日) - 1821年3月20日、エドワード・パーシヴァル閣下(Hon. Edward Perceval、1795年7月30日 – 1840年3月10日、第2代アーデン男爵チャールズ・パーシヴァル英語版の息子)と結婚[31]
  • フランシス(1792年11月27日 – 1877年4月29日[31]
  • マリア(1794年2月26日 – 1877年1月19日[31]
  • スペンサー英語版(1795年9月11日 – 1859年9月16日) - 庶民院議員。1821年7月3日、アンナ・イライザ・マクロード(Anna Eliza Macleod、1889年10月2日没、ノーマン・マクロードの娘)と結婚、子供あり[5]。父の死後、リンカーン法曹院の評議員により学費を免除された[32]
  • フレデリック・ジェームズ(1797年10月6日 – 1861年7月22日) - 1827年7月25日、メアリー・バーカー(Mary Barker、1843年4月24日没、ウィリアム・バーカーの娘)と結婚、子供あり。1844年4月6日、エマ・ギルバート(Emma Gilbert、1870年12月23日没、ラルフ・ギルバートの娘)と再婚、子供あり[5]法律上の第10代エグモント伯爵フレデリック・ジョージ・ムーア・パーシヴァルの祖父[33]
  • ヘンリー(1799年8月2日 – 1885年4月) - 聖職者。1826年3月27日、キャサリン・イザベラ・ドラモンド(Catherine Isabella Drummond、1870年2月12日没、アンドルー・バークリー・ドラモンドの娘)と結婚、子供あり[5]
  • ダドリー・モンタギュー(1800年10月22日 – 1856年9月2日) - 1827年7月24日、メアリー・ジェーン・バーク(Mary Jane Bourke、1888年5月21日没、サー・リチャード・バーク英語版の娘)と結婚、子供あり[5]。父の死後、リンカーン法曹院の評議員により学費を免除された[32]
  • イザベラ(1801年12月10日 – 1886年7月16日) - 1835年10月6日、スペンサー・ホレーショ・ウォルポール(1898年5月22日没)と結婚、子供あり[34]
  • ジョン・トマス英語版(1803年2月14日 – 1876年2月28日) - 陸軍軍人。1834年3月31日、アンナ・ガードナー(Anna Gardner、1883年1月23日没、トマス・ガードナーの娘)と結婚、子供あり[5]。2つの精神病院に入ったことがあり、病院で受けた残酷な扱いを著作『語り』で告発した[35]
  • ルイーザ(1804年3月11日 – 1891年9月13日[34]
  • フレデリカ(1805年8月27日 – 1900年5月12日[34]
  • アーネスト・オーガスタス(1807年5月17日 – 1896年1月19日) - 陸軍軍人。1830年5月13日、ベアトリス・トレヴェリアン(Beatrice Trevelyan、1898年3月19日没、第5代準男爵サー・ジョン・トレヴェリアンの娘)と結婚、子供あり[5]

1790年に結婚したときはロンドンのベッドフォード・ロー(Bedford Row)でカーペット屋の上の階に部屋を借りていたが[24]、1793年ごろに義父が妻に与えた金を使ってリンカーンズ・イン・フィールズで住居を購入したが、1796年までに子女を5人もうけて家計に重くのしかかった[1]ベルサイズ・パーク英語版クラパム英語版に住むこともあったが[8]、1807年末までにダウニング街10番地に住むようになり[3]、1812年に庶民院で暗殺されたときも官邸から歩いて庶民院についたところだった[20]。このほか、1808年にイーリングのエルム・グローヴ(Elm Grove)を7,500ポンドで購入して、郊外での住居とした[36]

1781年に妹がドラマンズ銀行英語版の銀行家アンドルー・バークリー・ドラモンド(1833年没)と結婚したこともあり、夏にはドラモンドが所有するハンプシャーキャドランズ英語版で過ごすことが多く、パーシヴァル自身も1786年10月にドラマンズ銀行で口座を開設した[24]。口座開設時点では年収が200ポンドだったため、年150ポンドのクレジットしか与えられなかった[24]。以降も家計の問題がついてまわり、官職就任の決定にも影響を与えた[1]

注釈

  1. ^ ペインもホーン・トークも影響力のある急進主義者だった[2]
  2. ^ a b 同母兄にあたる第2代アーデン男爵チャールズ・ジョージ・パーシヴァル英語版第1次小ピット内閣で下級海軍卿(Lord of Admiralty)を務めていた[2]
  3. ^ デスパードはロンドン塔イングランド銀行への襲撃、およびジョージ3世暗殺を計画したとして、のちに有罪判決を受けて処刑された[3]

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au Jupp, P. J. (21 May 2009) [23 September 2004]. "Perceval, Spencer". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/21916 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b c d e f g h i Burns, Arthur (28 October 2015). "Spencer Perceval". History of government - gov.uk (英語). 2023年8月20日閲覧
  4. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1926). The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 30.
  5. ^ a b c d e f g h Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke’s Peerage Limited. pp. 957–958. ISBN 2-940085-02-1
  6. ^ 松川実「特許のフェア・ユースと著作権のフェア・ユース(24)」『青山法学論集』第58巻第2号、2016年9月、doi:10.34321/19520ISSN 0518-1208NCID AN00009024 
  7. ^ Namier, Sir Lewis (1964). "PERCEVAL, John, 2nd Earl of Egmont [I] (1711-70).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年8月20日閲覧
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb Thorne, R. G. (1986). "PERCEVAL, Hon. Spencer (1762-1812), of Elm Grove, Ealing, Mdx.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年8月20日閲覧
  9. ^ a b "Perceval, the Hon. Spencer. (PRCL780S)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  10. ^ Knox, Kevin C. (23 September 2004). "Milner, Isaac". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/18788 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
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  12. ^ Gray, Denis (1963). Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812 (英語). Manchester University Press. p. 14.
  13. ^ a b c d Thorne, R. G. (1986). "Northampton". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年8月20日閲覧
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  19. ^ a b c Thorne, R. G. (1986). "MCMAHON, John (c.1754-1817), of Carlton House and Charles Street, St. James's Square, Mdx.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年8月20日閲覧
  20. ^ a b c d e f g h i Hanrahan, David C. "The assassination of Spencer Perceval, British Prime Minister". The History Press (英語). 2023年8月20日閲覧
  21. ^ Dunton, Mark (11 May 2012). "The assassination of Spencer Perceval". The National Archives (英語). 2023年8月20日閲覧
  22. ^ a b Gash, Norman (10 October 2019) [23 September 2004]. "Jenkinson, Robert Banks, second earl of Liverpool". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/14740 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
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  24. ^ a b c d e f Bolitho, Hector; Peel, Derek Wilmot (1967). The Drummonds of Charing Cross (英語). George Allen and Unwin. pp. 100–101.
  25. ^ Temple, Philip, ed. (2008). "Northampton Square area: Introduction". Survey of London (英語). Vol. 46. London: London County Council. pp. 294–304. British History Onlineより2023年8月20日閲覧
  26. ^ Walpole, Sir Spencer (1874). The Life of the Rt. Hon. Spencer Perceval (英語). London: Hurst and Blackett.
  27. ^ "Spencer Perceval: Plaque for assassinated prime minister". BBC News (英語). 21 July 2014. 2023年8月20日閲覧
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  29. ^ a b Gray, Denis (1963). Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812 (英語). Manchester University Press. p. 470.
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  31. ^ a b c Lodge, Edmund, ed. (1892). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (61st ed.). London: Saunders and Otley. pp. 227–228.
  32. ^ a b Gray, Denis (1963). Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812 (英語). Manchester University Press. p. 463.
  33. ^ Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda) (英語). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 299. ISBN 978-0-7509-0154-3
  34. ^ a b c Lodge, Edmund, ed. (1907). The Peerage, Baronetage, Knightage & Companionage of the British Empire for 1907 (英語). Vol. 1 (76th ed.). London: Saunders and Otley. pp. 687–688.
  35. ^ 松村, 高夫「ロイ・ポーター著 狂気の社会史」『三田学会雑誌』第86巻第3号、慶應義塾経済学会、1993年、330頁、doi:10.14991/001.19931001-0166 
  36. ^ Gray, Denis (1963). Spencer Perceval: The Evangelical Prime Minister, 1762–1812 (英語). Manchester University Press. p. 141.

関連図書

関連項目

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
コンプトン卿
エドワード・ブーヴェリー閣下英語版
庶民院議員(ノーサンプトン選挙区英語版選出)
1796年 – 1800年
同職:エドワード・ブーヴェリー閣下英語版
次代
連合王国議会
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
グレートブリテン議会
庶民院議員(ノーサンプトン選挙区英語版選出)
1801年 – 1812年
同職:エドワード・ブーヴェリー閣下英語版 1801年 – 1810年
ウィリアム・ハンベリー英語版 1810年 – 1812年
次代
ウィリアム・ハンベリー英語版
コンプトン伯爵
公職
先代
ヘンリー・ペティ卿
財務大臣
1807年 – 1812年
次代
ニコラス・ヴァンシッタート英語版
先代
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ダービー伯爵
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